[#表紙(img¥表紙.jpg)] 阿辻哲次 漢字のなりたち物語   まえがき  漢字の検定試験に、年間百万人を超える人が挑戦しているらしい。新聞や雑誌でも、漢字を題材にした蘊蓄《うんちく》話が、連日のように掲載されている。今の日本には未曾有《みぞう》の漢字ブームが押し寄せているらしい。漢字制限論や漢字廃止論が声高《こわだか》に論じられた時代に教育を受けた世代から見れば、まことに隔世の感がある。  昭和五十六年(一九八一)に「常用漢字表」が制定されて以来、現在までに二十年近い時間が経ったが、その間に漢字をめぐる状況は大きく変化した。中でも最大の変化は、それまで機械では書けなかった漢字が、ワープロの登場と普及によって、いともたやすく機械処理できるようになったことである。初期のワープロは数百万円もする高価な機械だったから、とても個人が家で使えるものではなかった。しかし電子技術の進歩とともに、ワープロ(及びワープロとして使えるパソコン)は急速に低価格化し、それとともにオフィスはもちろん、家庭の中にまで浸透した。キーボードを自由に操ってすらすらと文章を書く小学生など、今では少しも珍しくない。  漢字は画数が多くて、字形も複雑だから、なかなか覚えられない。おまけにアルファベットとちがって、タイプライターのような機械では書けない。こんな厄介で遅れた文字はなるべく使わない方がいい。これがかつての漢字制限・廃止論の主張だった。  しかし今では機械で簡単に漢字が書けるようになった。「憂鬱《ゆううつ》」とか「穿鑿《せんさく》」・「顰蹙《ひんしゆく》」など、かつては書くのが大変だった漢字でも、いくつかキーを打つだけで、すぐに画面に表示されるし、ボタン一つできれいに印刷までできる。記憶の呪縛から解放された時、人々が何の抵抗もなく、多くの漢字を使い出したのはきわめて自然なことだった。  だがこうして起こった新しい漢字文化がバラ色だったわけではなかった。文中に漢字を使いすぎる、とか、手書きでは漢字が書けなくなったとか、ワープロ時代の漢字文化にいくつかの弊害が生じていることはまぎれもない事実であり、それを克服するのがこれからの課題である。  文字のありようは、中国でも日本でもこれまでたえず変化してきた。これからもどんどん変わっていくことだろう。しかし文字の根底には、いつの時代でも過去から連続する人々の文化と智慧の総体が横たわっている。それを忘れては、新しい文字文化の創造はあり得ない。  本書は一九九六年から三年間、月刊「現代」に連載した「漢字の森へ」を基礎として、それを大幅に増補したものである。漢字のなりたちについての話を中心に、さらにそれぞれの漢字の背景に潜んでいる、硬軟とりまぜた実に多様な文化的営為を読みとっていただければ幸いである。  二〇〇〇年一月 大阪にて[#地付き]阿辻哲次  [#改ページ]  目 次   まえがき  1麻 あさ   麻は「五穀《ごこく》」のひとつ  2頭 あたま  頭の善《よ》し悪《あ》し  3甘 あまい  甘は美なり  4雨 あめ   雨降りの占い  5家 いえ   家は神聖な場所  6息 いき   ゆるやかに息をする  7育 いく   育は出産の情景  8鵜 う    鵜飼《うかい》にペリカン  9馬 うま   馬|肥《こ》ゆる秋  10海 うみ   海は明るい未来  11梅 うめ   梅と梅毒  12男 おとこ  男は田んぼで力仕事  13鬼 おに   鬼が消えた  14親 おや   親の出番  15御 おん   御と中国人の誤解  16解 かい   包丁《ほうちよう》名人の解  17顔 かお   顔は看板  18香 かおり  グルメは香にこだわる  19風 かぜ   風月の悦楽  20髪 かみ   髪は抜け落ちない?  21雷 かみなり 雷とへそ  22亀 かめ   亀の値打ち  23烏 からす  烏の徳  24黄 き    黄は劣情《れつじよう》の色  25菊 きく   菊の効用  26恭 きょう  恭子さん、ごめんなさい  27饗 きょう  饗宴は最大の幸福  28業 ぎょう  業はやらねばならないこと  29※[#「金/(金+金)」、unicode946b] きん   ※[#「金/(金+金)」、unicode946b]は金|儲《もう》けの願い  30苦 く    苦は植物の名前  31口 くち   言い食らう口  32首 くび   首と友情  33紅 くれない 紅は中国の赤  34芸 げい   虫を防ぐ芸草  35麑 げい   麑は鹿児島  36個 こ    中国語で個数を数える  37鯉 こい   鯉の手紙  38郊 こう   郊は無人の原野  39餃 こう   新婚夫婦と餃子  40氷 こおり  氷と権力者のトリック  41米 こめ   米にて生きる者  42桜 さくら  桜の女は二階にいない  43酒 さけ   酒と王様  44寒 さむい  寒さの効用  45士 し    士《さむらい》の条件  46塩 しお   塩は辛いか?  47舌 した   アヒルの舌  48七 しち   七は尊い奇数  49謝 しゃ   「謝謝《シエシエ》」のお国がら  50震 しん   震《ふる》える蛤《はまぐり》  51雀 すずめ  麻雀《マージヤン》の焼き鳥  52税 ぜい   税を穀物で納める  53銭 ぜに   銭|儲《もう》け  54即 そく   即席ラーメンの背景  55正 ただしい 正しい戦争  56旅 たび   旅で一戦  57為 ため   為になる象  58妻 つま   妻には勝てぬ  59辛 つらい  胡椒《こしよう》は至って辛辣《しんらつ》  60党 とう   党は五百軒の家の集まり  61鳥 とり   鳥を見る  62嬲 なぶる  嬲と驚きの出会い  63膾 なます  膾炙は美味な料理  64涙 なみだ  涙は雨のごとし  65也 なり   也は女性そのもの  66肉 にく   お月様と肉  67年 ねん   豊年満作  68野 の    野合《やごう》の産物  69喉 のど   咽喉《いんこう》の世相  70歯 は    虫歯美人  71蠅 はえ   五月の蠅  72莫 ばく   莫と暮  73鼻 はな   鼻の頭を押さえる  74母 はは   母と乳房  75省 はぶく  故郷に帰り反省する  76春 はる   春はエッチ  77比 ひ    比は男女の向き合い方  78美 び    美女との出会い  79髭 ひげ   現代の髭づら  80羊 ひつじ  羊羹《ようかん》の恨《うら》み  81武 ぶ    武は戈《ほこ》を止める  82糞 ふん   糞のマイナスイメージ  83文 ぶん   文はきらびやかな世界  84保 ほ    保母の条件  85卍 まんじ  卍は吉祥万徳  86道 みち   二通りの道  87緑 みどり  不名誉な緑  88麦 むぎ   麦は遠くから来るもの  89虫 むし   虫が売られる時代  90目 め    目に恨《うら》みをこめる  91桃 もも   桃がもつ神聖さ  92休 やすみ  休は木陰でほっと一息  93柳 やなぎ  柳巷花街  94雪 ゆき   雪見酒を楽しむ  95豊 ゆたか  豊かな生活とは  96夢 ゆめ   夢に託して  97陽 よう   陽|極《きわ》まりて  98夜 よる   亡国《ぼうこく》の夜  99老 ろう   老春の酒  100労 ろう   労は社会の美徳 [#改ページ] 1 [#特大見出し] 麻《あさ》 [#地付き]麻は「五穀《ごこく》」のひとつ   古代中国ではいろんな穀物を総称して、「五穀」と呼んだ。「五穀」というからもちろん五種類の穀物だが、その内訳には二つの解釈があって、一つは「稲・黍《きび》・稷《コーリヤン》・麦・豆」とする説、もう一つは「麻・黍・稷・麦・豆」とする説である。この二説のちがいは、前者には稲が含まれているのに対して後者にはそれがなく、かわりに「麻」が入っていることである。 「麻」すなわちアサが穀物の中に数えられているのは、現代の日本人にはいささか奇妙に感じられるだろう。アサはクワ科の一年草で、栽培する目的は、もちろん繊維をとるためである。ただし品種によっては麻薬が作れるので、今の日本では栽培が制限されているとのことだ。中国ではアサは非常に早くから各地で栽培されており、古代中国の衣服は絹かアサで作られるのが普通だった。木綿の材料となる綿花が中国に伝わるのは、ずっと後のことである。  アサは背の高い植物で、茎が一・五メートルから高いものでは三メートルにも達する。夏の終わりごろに茎を刈りとり、中の繊維質の部分から麻糸を作る。「麻」は古くは「※[#「嘛」のつくり]」と書き、中の≪※[#「嘛」のつくりから、まだれを除いたもの]≫は、茎から繊維をはぎとる形である。外側の≪广≫はよくわからないが、一説に糸を供える廟の意という。  アサを栽培すれば茎から繊維を採取できるから、それを糸につむぎ、布に織って衣服などの素材を作ることができる。その点でアサは古代人にとっても大変に重要な農業作物だったが、しかしアサはまた茎だけでなく、実の方にもいくらかの利用価値があった。 ◎実《み》は鳥の飼料[#「◎実《み》は鳥の飼料」はゴシック体]  アサは雌雄異株《しゆういしゆ》の植物で、雌株は夏に花が咲いたあと、初秋に小さな実をつける。実は最初は白くて平たい形をしているが、熟すると球形となり、表面が濃い褐色となって光沢をもち、非常に硬くなる。この実を食用とすることができるのである。またアサの実は油性分含有量が約三〇パーセントにも達するので、これをしぼれば良質の油をとることもできる。日本ではこの実を「麻の実」、または「苧《お》の実」といい、もっともよく見かけるのは、いなりずしの中に歯ざわりをよくするための具として混ぜられているものである。また香辛料の一種として七味の中に混ぜられることもあるし、加工しない実は鳥の飼料としても販売されている。  このようにアサの実を食べることも決して不可能ではないが、しかしそれはいわば副食品であって、主食として日常的に食べるものではない。だから「穀物」という呼び方にはなじまないのだが、しかしそれにもかかわらず「五穀」の中にアサが数えられているのは、おそらく「穀物」というものの捉《とら》え方による。 「五穀」の「穀物」とは、おそらく日常生活に関係の深い重要な栽培作物という意味なのだろう。米が不作になっても、鳥の飼料を食わされるという日がこないことを切に祈るしだいである。 [#改ページ] 2 [#特大見出し] 頭《あたま》 [#地付き]頭の善《よ》し悪《あ》し   臓器移植のニュースが頻繁に報じられるようになった。脳死と認定された人体から取り出した臓器を、飛行機や車に積んで遠隔地《えんかくち》まで運び、それを他人に移植しているそうだが、こうなると内臓器官といっても、クール宅配便で届けられる鮮魚や果物とあまり変わらないように思える。  臓器移植を報じるニュースを見ていると、釣りに使うクーラーバッグのような箱を抱えた医師団が、あわただしく病院に入っていく姿がよく登場する。あの箱の中に、きっと心臓とか肝臓とかが入っているのだろう。そう考えるとなんとなく不気味な感じがするのは私だけだろうか。容器の中の臓器はおそらくむき出しではなく、しかるべく保存されているのだろうが、それにしても、肉体から切り離された臓器だけを生きたまま輸送できる理由が私にはまったく理解できない。  人間の身体器官は、脳が働きを停止してもまだ活動しているらしい。だから臓器移植が可能になるとのことだ。そうすると、脳を擁する頭部は非常に重要な働きをしているものの、生命の絶対的な維持については、心臓ほど深くかかわっていない、ということか。  頭がつかさどるのは、やはり学習と思考という方面が主で、知識の取得と蓄積が頭脳の最大の機能だろう。だがその能力には、悲しいことに個人差がある。それが頭の善し悪し、ということだ。ちなみに「頭」は≪頁≫(あたまの意)と≪豆≫に分けられるが、≪豆≫は「トウ」という音を表すだけで、「マメ」という意味を表すのではない。 ◎偏差値が高い学生とは[#「◎偏差値が高い学生とは」はゴシック体]  大学受験に関するデータを豊富に持っている高校や予備校などでは、「偏差値」とかいう数値によって、各生徒に選択させ、そこへの合否を予測するらしい。そして偏差値による予測はほぼ確実に当たるそうだ。  現在の大学受験は、とにかくあらゆるところで偏差値がものをいう。私が勤務している京都大学には、いわゆる偏差値の高い学生がたくさんいるらしい。だがここ数年、京都大学で講義をしている者の実感として、「頭のいい」学生に出合うことがめっきり少なくなった。世間の方からは「東大や京大には頭のいい学生さんがたくさんいるんでしょう?」とよく聞かれる。しかし東京大学のことは知らず、わが京大についていえば、それは大きな誤解である。  たしかに偏差値が高い、つまりテストの成績がいい学生は、山のようにいる。そもそもそういう学生でなければ、入学試験の関門をくぐり抜けてこられない。しかしそれでは彼らが全員頭がいいかといえば、必ずしもそうとは限らない。いや事実はむしろ逆であって、非常に多くの知識を所有していながら、それを試験の解答欄の中でしか使えないという、実に頭の悪い学生が圧倒的多数である、というべきだろう。臓器移植のメッカである京大病院は、いっそのこと学生の脳を移植しなおすことを考えたらどうだろう。 [#改ページ] 3 [#特大見出し] 甘《あまい》 [#地付き]甘は美なり   もう十数年以上も前の経験だが、中国である盛大な宴会に招かれたことがある。それはいささか格式ばった宴会で、このような時には日本の結婚披露宴と同じように、各自の席に当日に供される料理を列挙した小さなメニューが置かれる。  なにげなく手にとったメニューの最後の方に、「八宝飯」という文字があった。まだこの料理を食べたことがない日本人が、この三つの漢字の並びを見れば、誰だって「八宝菜《はつぽうさい》」を連想するにちがいない。私もその時には、「八宝飯」とはご飯の上に八宝菜をかけたもの、つまり日本でいうところの「中華|丼《どんぶり》」のようなものと考えた。  しかし宴の最後の方に出てきた「八宝飯」は、中華丼とは似ても似つかぬものだった。それはデザートの一種で、もち米を使っていることから「飯」という字が使われているが、実際は強烈に甘いお菓子だった。そしてこれはいたって辛党《からとう》である私が、かつて口にした食品の中でおそらくもっとも甘いものだった。  八宝飯を作るには、まずもち米にハスの実やナツメ、あるいは梅の砂糖づけを混ぜこみ、別に用意しておいたアズキの餡《あん》を入れてから蒸す。これだけでもずいぶん甘いはずだが、蒸し上がってから、さらに上から氷砂糖を溶かして作った蜜をたっぷりかける。これでもか、といわんばかりの甘さであることが、その作り方からわかるだろう。  宴席で聞いたところでは、八宝飯はハレの日のご馳走の部類に入るもので、もともとは重陽《ちようよう》節(旧暦九月九日)を祝ったり、あるいはなにか祝いごとがある時に作られるものだそうだ。日本でもかつてそうだったように、祝いごとに供されるご馳走はすべからく甘くなければならない。だがそれにしても、これは別格の甘さであった。 ◎口の中に宿るもの[#「◎口の中に宿るもの」はゴシック体] 「甘」という漢字は、大きく開いた口の中に、≪一≫(あるいは≪丶≫)がある形である。 [#挿絵(img¥03.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  この字について、後漢《ごかん》の時代、西暦一〇〇年頃に作られた中国最古の文字学書『説文解字《せつもんかいじ》』は「美なり」、すなわち「おいしい」とその意味を説明し、さらにその字のなりたちについて、口の中にある≪一≫は宇宙を支配する摂理である「道」をかたどったものであるという。  口の中に「道」を味得《みとく》できることが究極の美味であるとは、まさに食における究極の世界を悟りきった者の発言のようだが、実際にうまいものを食べる時に、口の中にいちいち道徳などを宿していては面倒でしかたがない。それは現代人にとって面倒であるだけでなく、古代人にとってもきっと面倒であったにちがいない。 「甘」の中にある≪一≫は、実際にはなにか食品が口の中に入っていることを表す記号にすぎない。  この文字が作られた時代の人々は、口にものが入っているだけで、それだけで「おいしい」と感じられたのだ。飽食《ほうしよく》の時代ではなかなか理解できない造字である。 [#挿絵(img¥p015.jpg)] 4 [#特大見出し] 雨《あめ》 [#地付き]雨降りの占い   空から降ってくるアメを表す文字を作ってごらん、と子供にいえば、どこの国の子供でも、きっと水滴が空からしたたりおちてくるありさまを絵に描くだろう。じっさい「雨」という漢字は、こうして作られた。 [#挿絵(img¥04.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  よく知られているように、文字の始まりは絵画であって、ヤマやサカナなど、世界中どこにもあるありふれた事物は、どこの国の人が描いてもだいたい同じような形になった。だから古代のエジプトや中国で作られた象形《しようけい》文字では、ヤマやサカナ、ウマ、あるいは樹木などがだいたい同じ形に描かれている。 「雨」という漢字は甲骨文字によく登場する。甲骨文字とは、王と国家にとって重要な事柄に関して神のお告げを得るためにおこなわれた占いの記録である。実際に占われた重要事とは、たとえばライバル国家との戦争や狩猟、王の祖先に対する祭祀《さいし》の可否、それに農業生産の収穫がうまくいくかどうかといったテーマだが、それらに混じって、「今夜は雨が降るだろうか」という降雨の予測が、かなり頻繁に占われている。  殷《いん》(?〜前一一〇〇頃)の人々は神さまに天気予報を尋ねていたようだ。雨漏りのしない家に暮らす現代人とちがい、簡単な竪穴《たてあな》式住居に暮らしていた古代人にとっては、降雨は非常に迷惑な自然現象だったにちがいない。亀の甲羅《こうら》の表面に刻まれた「雨」という字を見ていると、狭い竪穴式住居の中で身を寄せ合い、じっと雨を避けている家族の姿が頭の中に浮かんでくるようだ。  しかし雨がまったく降らなければ、それはそれで大問題である。甲骨文字の時代には農業がすでにさかんにおこなわれていた。雨は農業生産に対して、直接的に非常に重要な影響を及ぼす。だから古代人は、雨やそれをもたらす風に対して、我々の想像を絶するほどに大きな関心を抱《いだ》いていた。その現れが甲骨の表面に刻まれた降雨の予測なのである。 ◎雨はほどほど[#「◎雨はほどほど」はゴシック体]  永くアメリカで暮らした知人が、日本は適度に雨が降るのでとても住みやすい、といっていた。そんなものかなとも思うが、しかし降りすぎても困る。長雨が続くと食物がかびるし、室内もじめじめする。ちょっとした外出もおっくうになる。とりわけ突然の雨がやっかいだ。外出先で夕立に降り込められ、傘をもっていなかったので全身濡れねずみになった、という経験をもつ人は非常に多いだろう。私は雨が嫌いだ。  しかし雨は飲料水の来源でもある。カラ梅雨《つゆ》による水不足に日本中が泣かされたことも記憶に新しい。雨が嫌いだ、などといってはバチがあたるかもしれない。  そうそう、このあいだフライドチキンを食べたあとに残しておいた骨があったはずだ。あれを使って占いをして、雨降りの日を神さまに予測してもらおう。この「鶏骨《けいこつ》占い」(?)が当たれば、突然の雨でずぶ濡れになる悲劇を免《まぬか》れることができるのだが。 [#挿絵(img¥p019.jpg)] 5 [#特大見出し] 家《いえ》 [#地付き]家は神聖な場所  「家」という字は≪宀≫(屋根の象形)と≪豕≫(ブタ)とからできている。そのことから、「家」とはブタを飼うための小屋、つまり豚小屋である、という説明をする人が世間には時々いる。しかしそれは実にとんでもない俗解であって、金石文《きんせきぶん》や古代の文献に見える用例から考えれば、「家」は非常に神聖な場所だったらしい。 [#挿絵(img¥05.jpg、横120×縦160、上寄せ)] 「家」の中にいる≪豕≫(ブタ)は、飼われている生きたブタではなく、神に供《そな》えられる犠牲《いけにえ》の動物なのである。つまり「家」とはブタを代表とする各種の動物を犠牲として供えてお祭りする、先祖の位牌《いはい》を安置してある場所を指す文字であった。  神聖な「家」では、ブタやイヌ、あるいはヒツジなどを犠牲として、祖先の霊魂に捧《ささ》げて厳粛に祭祀《さいし》がとりおこなわれた。この建物を「宗廟《そうびよう》」という。この建物には祭祀の時に家族の主要な構成員が集まった。そこからのちに意味が拡大して、ひろく人間が居住する空間を「家」で表すようになり、さらにはそこに暮らす人間をも「家」で表すようになった。 ◎家の意味の広がり[#「◎家の意味の広がり」はゴシック体]  後漢《ごかん》・顕宗《けんそう》の皇后であった馬氏《ばし》は学問好きで、日頃から質素な身なりを心がけており、歌舞音曲《かぶおんぎよく》を好まない人物だった。夫の顕宗がある時、宮廷の庭園で盛大な宴席を設けたので、官吏《かんり》や貴妃・女官たちのほとんどが列席したが、しかし皇后の姿だけはどこにも見えなかった。  それを知った側近の者がさっそく、皇后さまをぜひともこの場にお招きいただきたい、と皇帝に願い出たが、しかし皇后の地味な人柄をよく知っている顕宗は、「是《こ》の家は志《こころざし》として楽《がく》を好まず、来たりといえども歓ぶこと無し」といって、その要請を断ったという(『後漢書《ごかんじよ》』馬皇后紀)。  右の文章にある「是の家」は、皇帝が皇后を指して使った表現である。ここでの「家」は「人」という意味で使われており、あえて日本語に直せば「そいつ」あるいは「その者」とでもなるだろうか。 「家」の意味は建物からこのように個人に広がり、さらには学問や芸術での学派や流派を指すようになった。中国の戦国時代(前四〇三〜前二二一)に各地に輩出《はいしゆつ》した種々の思想家を区分して「儒家《じゆか》」や「法家《ほうか》」、あるいは「諸子百家《しよしひやつか》」(諸学者・諸学派の総称)などというのがそのわかりやすい例である。  さらに「家」は職業として仕事や技術にたずさわったり、特定の分野や技量に秀でた人物を呼ぶのにも使われるようになった。「芸術家」や「書家」、「理論家」などがそうである。「家」の中にいたブタも、大層な出世を遂《と》げたものである。 [#改ページ] 6 [#特大見出し] 息《いき》 [#地付き]ゆるやかに息をする   小学校高学年の子供が、学校の書き取りの試験で「休息」という漢字をまちがった。こんな簡単な字のどこをまちがったのかと答案を出させると、「息」という字の上を≪白≫と書いていた。漢字学者の息子といっても、しょせんはこの程度である。 [#挿絵(img¥06.jpg、横120×縦160、上寄せ)] 「息」を分解すると、≪心≫の上に≪自≫がある。この≪自≫は、「鼻」のところに述べるようにもともと鼻の頭をかたどった象形文字で、最初は「鼻」を意味する字だった。「じぶん」という意味で使うのは、あとからできた用法である。またもう一つの要素である≪心≫は「こころ」、すなわち「むね」の意で、鼻と胸を表す二つの要素を組み合わせて、文字全体で「人や動物が呼吸する」ことを表す。「呼吸」とは鼻と胸を使って空気を吸い込み、またそれを吐き出すことだから、「息」という字の作り方は、呼吸の動作を実にうまく表現したものといえる。  ところで呼吸することを表す漢字には、「息」のほかに「喘」という字もある。「喘」と「息」にはもともと使い分けがあり、ゆるやかに呼吸することが「息」であるのに対して、あえぐように速く呼吸することを「喘」といった。「喘息《ぜんそく》」とはもともと、「喘するがごとき息」の意で、激しくせきこみ、あえぐような苦しい呼吸をすることをいった。 「息」は、「呼吸する」という意味から転じて、人が成長すること、あるいは子供を生むことを意味するようになった。自分(あるいは妻)が生んだ男の子供を「息子《むすこ》」あるいは「子息《しそく》」、女の子供を「息女《そくじよ》」というのは、いずれも「息」を「生」の意味で使ったものである。  さらに「息」は「やすむ」という意味でも使われる。これは「ゆるやかに息をする」という意味からの派生で、「休息する」、さらに転じて「眠る」という意味にも使われるようになった。 ◎息するあたわず[#「◎息するあたわず」はゴシック体]  中国最古の詩集である『詩経《しきよう》』の中に「狡童《こうどう》」という詩がある。「狡童」とはプレイボーイというくらいの意味であるが、その詩に、   彼《か》の狡童は、我と食らわず   維《こ》れ子《し》の故に、我 息するあたわず という一節がある。  あのプレイボーイったら、あたしといっしょにご飯を食べてくれない。まったくあいつのおかげで……と、この女性は恋人につれなくされた嘆きを詠むのだが、さて最後の「我 息するあたわず」をどう読むべきか。「息」を呼吸の意ととれば「あいつのために、もう生きていけない」となるし、休息の意にとれば、「あいつのためにゆっくりと眠ることもできない」となる。どちらにしても、そんなことを一度女性からいわれてみたいものだ。 [#改ページ] 7 [#特大見出し] 育《いく》 [#地付き]育は出産の情景   出産というのは、男でもなんとなくドキドキするものだ。私の場合、はじめての子供の時には家内の出産予定日が近づくと、自分が生むわけでもないのにそわそわしだし、少しは落ちついたらどうだ、と逆に家内からたしなめられるほどであった。  若い人には想像もできないだろうが、かつての出産は、妊婦が暮らす家に産婆《さんば》さん(助産婦さん)がやってきておこなうものだった。だが今では自宅でのお産などほぼ皆無《かいむ》だろう。  出産をめぐる状況が大いにさまがわりし、医学の進歩がそれにさらに拍車をかけた。生まれてくる子供が男か女か、医者が事前にそれを教えることなど少しも珍しくないし、病院の中には夫が妻の出産に立ち会い、「産みの苦しみ」を夫婦で共有させようとするところもある。陣痛をコントロールできる薬品まであり、それを使えば医師や看護婦さんたちにとって都合のいい時間に出産させることができるそうだ。私がその事実を知った時には心底驚いたものだが、病院関係者や出産経験のある女性はみな、そんなことは常識だ、と平然という。  出産に際しての生命の危険はぐっと少なくなったそうだ。かつては出産で落命《らくめい》した女性がたくさんいた。母か子かのどちらかが存命《ぞんめい》ならばまだしも救われるが、母子ともに絶命という悲劇的な事態すらあった。  出産に際しての困難、つまり「難産」の一種として、以前は「逆子《さかご》」がよくあった。逆子は往々にして母体の生命の危険をともなう。だから現在でも妊娠中の女性や家族は、逆子の出産に大きな不安を感じる。そして現実に通常の分娩《ぶんべん》では健康保険が適用されないが、逆子の出産の場合には「異常分娩」として、健康保険による医療|給付《きゆうふ》が適用される。だがこれも医学の進歩で、逆子の可能性があれば母胎の中で位置を反転させてしまうから、このごろは逆子の出産などめったにないらしい。 ◎「育」のもとの意味[#「◎「育」のもとの意味」はゴシック体]  新生児は母親の胎内から姿を現す時、まず頭の方から出てくる。それを漢字で表現したのが≪※[#「子」の上下反転文字]≫であり、その下に≪月≫(ニクヅキ、人間や動物の肉体を示す要素)を配置したのが「育」である。 [#挿絵(img¥07.jpg、横120×縦200、上寄せ)]  つまり「育」とは、頭を下にした子供が肉体から今にも出ようとしている形を示しており、だから「育」のもとの意味は「子供を生む」ことだった。この字はやがて後に、「そだてる」とか「教育する」という意味で使われることがほとんどとなるが、それは実は本来の意味から派生した使い方なのである。 「育」は出産の情景をそのものズバリ描く文字である。この字を性教育に使えば非常に大きな効果が発揮できると思う。どこかの小学校の教材に採り上げないだろうか。 [#改ページ] 8 [#特大見出し] 鵜《う》 [#地付き]鵜飼《うかい》にペリカン   中国最古の詩集である『詩経』の中に「維《こ》れ鵜は梁《やな》に在るに、其の翼を濡《ぬ》らさず」という詩句がある。「梁」は魚を捕るために石で川をせき止めた場所で、そこに鵜がいながら、不思議なことに翼が濡れていない、という意味である。  ここに「鵜」という鳥が登場する。この字は日本では「ウ」と訓じられるが、しかしこの鵜は、長良《ながら》川をはじめとして日本各地でおこなわれている「鵜飼」で活躍している、かの江戸の高名な俳人が「面白うて、やがて悲しき」と同情した、あのウという鳥ではない。  そもそもこの字は≪鳥≫と音符の≪弟《テイ》≫からなる形声《けいせい》文字で、音読みは「テイ」、「ウ」はその訓読みである。 『詩経』の中にはさまざまな動植物が登場し、それらについては早い時代から専門の解説書が作られていた。そのもっとも古いものに、三国《さんごく》(魏《ぎ》・呉《ご》・蜀《しよく》の呉の|陸※[#「王+幾」、unicode74a3]《りくき》が作った『毛詩草木鳥獣虫魚疏』という書物があり、それでは「鵜」について、次のように記されている。  鵜は水鳥なり。形は鶚《みさご》の如くして極めて大きく、喙《くちばし》の長さは尺余り、直《なお》くして広し。口中は正赤《まつか》なり。頷《あご》の下の胡《ひげ》は大なること数升の嚢《ふくろ》の如し。若《も》し小沢《しようたく》の中に魚有れば、便《すなわ》ち群は共に水を抒《く》み、其の胡を満たして之を棄て、水をして竭尽《かれ》さしむ。魚 陸地に在りて、乃《すなわ》ち共にこれを食らう。 ◎長いクチバシ、大きな袋[#「◎長いクチバシ、大きな袋」はゴシック体] 「鵜」はミサゴのような大きさの水鳥で、一尺(約二五センチ)のまっすぐなクチバシをもち、その下には「胡」(あごの下に垂れ下がった肉)があって、それは数升の水が入るほどの大きな袋の形をしている。そして沼地に魚がいる時には、何羽かが群れになって水をかいだし、水がなくなってから魚を捕食《ほしよく》する、とその文章は説明している。  長いクチバシの下に大きな袋がある、といえば、まっさきに思いつくのはペリカンである。もちろんペリカンの口の下にある袋(実は下嘴《したくちばし》が変形したものであるが)は水中にいる魚をすくうためのものであり、それを使って沼の水をかいだすという話は聞いたことがない。しかし「大きな袋がある」という記述からは、その鳥はやはりペリカンとしか思えない。また現在の中国語でペリカンを「鵜※[#「胡+鳥」、unicode9d98]」というのも、おそらくこの『毛詩草木鳥獣虫魚疏』の表現に基づいて名づけられたものにちがいない。  ペリカンは渡り鳥で、ヨーロッパ南東部からモンゴル、あるいは中国北部で繁殖し、インドや中国南部で越冬《えつとう》するから、もともと黄河《こうが》流域にペリカンが野生でいても不思議ではないのである。  どこか「鵜飼」でペリカンを使うところはないだろうか。きっと大漁《たいりよう》となるにちがいないのだが。 [#改ページ] 9 [#特大見出し] 馬《うま》 [#地付き]馬|肥《こ》ゆる秋   十五歳で前漢(前二〇二〜後八)の高祖《こうそ》(劉邦《りゆうほう》)の臣下となった石奮《せきふん》は、比類のない謹厳実直《きんげんじつちよく》さで皇帝と朝廷に仕えたことで知られる人物である。そしてその長男であった石建《せきけん》も、父親にひけを取らないほどに誠実かつ真面目な人物であったらしい。  その石建が郎中令《ろうちゆうれい》という官職にあった時、皇帝に上奏文《じようそうぶん》を提出した。それが皇帝から差し戻しを受けて戻ってきたので、読み返してみると、自分が書いた文章の中に使われている「馬」という字の、下の部分の点が一つ足りなかった。そのことを発見した石建は大いに驚き、かしこまって、 「馬」は足と尻尾《しつぽ》を一緒に勘定して五つであるべきなのに、自分の書いた文字は四つしかなく、一つ足りない。これは死にあたいする罪である。 と述べたという。  これは、石奮とその子供たちの生涯を記した伝記の中で、石氏父子がいかに誠実で几帳面《きちようめん》であり、また文字通り「一点一画をゆるがせにしない」人物であったかを語るエピソードである。 [#挿絵(img¥09.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  石建が生きた漢の時代には、隷書《れいしよ》という書体が全面的に使われていたのだが、隷書の「馬」の字形は現在使われている楷書《かいしよ》の字形とほとんどちがわない。 ◎馬の足は三本[#「◎馬の足は三本」はゴシック体]  ここで石建が問題としているのは字の下の部分であって、一番下にある点はそれぞれ馬の四本の足を、最後のところで右へぐいっと曲がっている部分は、馬の尻尾をかたどったものである。だからそこの部分は合計五個のパーツがあるべきなのに、自分が書いた「馬」は、足の部分が三つしかなかった(つまり点が三つしかなかった)というのである。  いかに皇帝に提出した上奏文とはいえ、たかが点を一つ落としたくらいで死刑とはおおげさな話である。だからこそ彼の生真面目《きまじめ》すぎるほどの人柄がわかるのだが、それはさておき、漢字をめぐる文化としてこの話にスポットをあてて考えてみると、「馬」という漢字が象形文字であると、石建にははっきりとわかっていたことが非常に興味深い。  彼は「馬」の下部が足と尻尾の象形であると明確にわかっていたからこそ、点が一つ足りないことを死刑相当の罪と考えたのである。  今の小学校の国語の授業では、漢字には象形文字がたくさんあることが教えられている。しかしいくら象形文字だからといっても、点が一つ少ないだけで死刑になっていれば、今ごろ日本の人口は激減しているはずである。石建のような先生に教わらずにすんで、私たちはまことに幸せだった。 [#改ページ] 10 [#特大見出し] 海《うみ》 [#地付き]海は明るい未来   現在見ることができる一番古い漢字である「甲骨文字」には、だいたい四五〇〇種類の漢字があったとされるが、その中に「海」という字が見あたらない。  それはそのはずで、甲骨文字を使っていた殷《いん》という王朝は、黄河《こうが》の中流域、現在の河南《かなん》省|安陽《あんよう》市郊外に都をおいていた。そこは海から遠くへだたった内陸部であり、だから殷の人々は海というものの存在自体を知らなかった。知らないものについて、文字が作れるはずがない。  古代中国の伝統的な王城の地といえば、まず長安《ちようあん》(現在の西安《せいあん》市)と洛陽《らくよう》があり、やがて南京《ナンキン》がそれに加わった。長江《ちようこう》下流域にある南京はまだしも海に近いといえるが、しかし長安や洛陽は完全な内陸部にあって、そこから東方の海岸線までは、直線距離で計っても優に数千キロはある。沿岸地帯に暮らす者は別として、過去の中国人の大多数は、海を直接目にすることなしに生涯を終えたはずだ。そしてその状況は現在でもそれほど変わってはおらず、テレビや映画以外に海を見たことがないという北京《ペキン》っ子を、私は何人も知っている。 ◎海はくらいもの[#「◎海はくらいもの」はゴシック体]  海との関係がそれほど密接ではないという事実が、中国人における「海」に対する認識に反映されている。  後漢《ごかん》の時代に作られた『釈名《しやくみよう》』という字書に、「海は晦なり」と記されている。非常に簡単な記述だが、これはある漢字の意味を同音の文字に置き換えて説明する方法であり、ここでは「海《かい》」を、それと同音の「晦《かい》」に置き換え、「晦」の意味で説明しようとしている。 「晦」を使った熟語には、「晦日《みそか》」とか「晦渋《かいじゆう》」がある。「晦日」は陰暦の三十日のことで、この日の夜は月がまったく見えない。つまり「くらい日」である。また「晦渋」とは「難解」ということで、「わけがわからない→よく見えない→くらい」という意味がある。要するに古代の中国人は「海」を「晦」、つまり「くらい」ものだと認識していた。彼らにとっての海とは、魔物が住み、妖怪《ようかい》が跋扈《ばつこ》する、おどろおどろしい世界だったのである。  いっぽう四方を海に囲まれた日本は、大いなる恵みを海から受け取ってきた。日本人にとっての海は、無尽蔵《むじんぞう》の資源の宝庫であり、そしてかつては中国へ、近代では欧米へという、未知の新しい世界に向かう通路でもあった。日本人にとっての海は、明るい未来につながっていた。  日中友好を唱えるスローガンのひとつに「一衣帯水《いちいたいすい》」という表現がある。これは両国の間には一本の帯《おび》のように狭い水路しかない、との意味だが、その水路に対する認識が、双方ではいささか異なるようだ。日中合弁の事業などが時にギクシャクするのも、実はこのあたりに理由があるのかもしれない。 [#改ページ] 11 [#特大見出し] 梅《うめ》 [#地付き]梅と梅毒   漱石の『吾輩は猫である』で、猫の主人である苦沙弥《くしやみ》先生は、著者と同じように胃弱だったから、しばしば医者の診察を受けたり、薬をもらっていた。このかかりつけの医者は作中では「甘木《あまき》先生」という名前で登場するが、この名前には実は漱石一流のユーモアが含まれていて、それは「某《なにがし》」という漢字を上下に分けると≪甘≫と≪木≫になることから命名されているのである。 「某」という漢字は、人の名前がわからないか、あるいは故意に名前を伏せて、特定の人物を指す時によく使われる。  しかしこの字はもともと「ウメ」という植物を意味する漢字だった。だからこそ「某」の字の下半分に≪木≫があるのだ。  だがやがてこの字は「なにがし」「だれそれ」という意味で使われるのが普通となり、「ウメ」という意味がだんだんと忘れられるようになってきた。  そこで≪某≫に≪木≫ヘンを加えた字を作って、本来の「ウメ」という意味を表すこととした。こうして「楳」という漢字ができた。そしてこの「楳」の異体字として使われたのが、我々にもおなじみの「梅」という漢字である。 「ウメ」という植物はもともと日本にはなく、中国から持ちわたられたものである。「ウメ」という呼称も、中国語の mei ということばが日本語になったものであるとされる。しかしその可憐な花は日本人にもすっかり気に入られ、昔より、多くの詩歌に詠まれてきた。 ◎迷惑な使われ方[#「◎迷惑な使われ方」はゴシック体]  日本語の中にも、「梅」という字を使った熟語がたくさんある。その中でもすぐに思いつくのは「梅雨《ばいう》」だろう。  六月頃の長雨を「梅雨」と書くのは、ちょうど梅の果実が実る頃に降るからだ、と通常は説明される。  しかしこれには異説もあって、その頃はジメジメして衣服などによくカビが生えるので、長雨のことを最初は「黴雨《ばいう》」と書いた。しかしこの表記は美観に欠けるし、風情《ふぜい》がないので、それで「黴」を同音の漢字である「梅」に置き換えて、「梅雨」と書くようになったというのだ。  二説のうちのどちらが正しいのか、私にはわからない。しかし「黴」と「梅」は確かに同音で、音読みはどちらも「バイ」である(「黴」の音読みは「黴菌《ばいきん》」という熟語を思い出せばすぐにわかる)。そしてこの二字が同音であることからできたことばには、ほかに「梅毒《ばいどく》」がある。 「梅毒」とは本来「黴毒《ばいどく》」と書かれるべき病気であった。事実そのように書いた過去の文献も存在する。それが、ただ「黴」と「梅」が同じ音だったために、いつの間にか「梅毒」と書かれるようになったのである。  美しい花や果実とはなんの関係もない性病の名前に、自分の漢字が使われるとは、梅にとってはさぞかし迷惑な話であったことだろう。 [#改ページ] 12 [#特大見出し] 男《おとこ》 [#地付き]男は田んぼで力仕事   別に昨今のガーデニング・ブームにあやかってのことではないのだが、我が家の隣にちょっとした空き地があるので、そこで畑を作っている。畑仕事とはいってもほんのまねごとだから、「収穫」とよべるほどにもとれないのだが、それでも時たま、もぎたてのトウモロコシやトマトを夕食のテーブルで味わうことくらいはできる。  強烈に照りつけた太陽がようやく沈もうとする夏の夕暮れに、キュウリやナスを何本かもって帰宅すると、冷たいビールが待っている。こんな時に無上の喜びを感じるようになったのは、きっとそれだけ年をとった証拠なのだろう。 「男」という字は、見ての通り≪田≫と≪力≫とからできている。簡単な構造だけど、なるほどよくできた漢字だ、と農作業を終えた男は感心しながら、ついつい新しいビールの缶に手を伸ばす。 「男」とは「田んぼで力仕事をする者」だという解釈を、誰しもこれまで、どこかで一度は耳にしたことがあるだろう。  それは、漢字研究ではもっとも権威がある『説文解字《せつもんかいじ》』という、中国最古の字書に記されている解釈なのである。  男が≪田≫んぼで≪力≫仕事にいそしんでいる。  それは農業が営まれる地域に暮らす人々における、素朴ではあるがしかしもっとも根元的な姿である。そこにはみずからの働きによって家族を養おうとする、たくましい男の強い意気込みが感じられる。 ◎一人前の男[#「◎一人前の男」はゴシック体] 『説文解字』では「男」を「丈夫なり」と訓じている。  この「丈夫」は「じょうぶ」、つまり「こわれにくくて頑丈《がんじよう》である」という意味ではなく、「身長が一丈ある男性」の意から、「一人前の男」を指して使われることばであり、この場合日本語では「じょうふ」と読む。  このことばができた中国、周の時代(前一一〇〇頃〜前二五六)の制度では、八尺を一丈とし、一尺は約二二センチであった。したがって一丈は一七六センチになる。古代人は現代の人間より小さかったはずだから、一七六センチもあれば、現代中国の男性と比べても、立派な体格である。  現代の「丈夫」は、しかし必ずしも≪田≫で≪力≫を発揮する必要がない。激しい勢いで機械化がすすみ、それとともに農業の担《にな》い手がどんどんと高齢化した。≪田≫と≪力≫を組み合わせて作られる文字を、現代ならむしろ「じっちゃん・ばっちゃん」と読むべきかもしれない。 [#改ページ] 13 [#特大見出し] 鬼《おに》 [#地付き]鬼が消えた   現在の大学で学生が履修《りしゆう》する外国語の中で、受講者数がもっとも多いのはもちろん英語だが、その次に多いのはドイツ語やフランス語などではなく、実は中国語である。  この事実は、大学の関係者を別とすれば、世間にはまだあまり知られていないようだが、語学の単位を取得するために中国語を選択する学生は、どこの大学でもすさまじい勢いで増加しており、一クラスに百人以上の学生が詰めこまれるという、およそ外国語の授業とは思えない光景も、今ではそれほど珍しくない。  そのために各大学は中国語の講義を担当できる人材をあちらこちらからかき集めてテンヤワンヤなのだが、こんな状況を利にさとい出版社が見すごすはずがない。かつては数えるほどしかなかった中国語の教科書が、ここしばらくの間に、雨後《うご》のタケノコのように急激に増えた。その内容も、現代中国の政治や経済に関するおかたいものから、『中国グルメ紀行』というような楽しいものまで、実にバラエティに富んでいる。印刷は二色刷りだし、中には中国各地の風景写真などがふんだんに載っていて、まるで観光案内のパンフレットかと思えるものまである。  七〇年代半ば、本国では「文化大革命」の真っ最中の時代に中国語を学んだ私たちの世代から見れば、まったく隔世《かくせい》の感がある。私たちの頃には中国語教科書などほんの数種類しかなかったし、おまけに内容も中国で編纂《へんさん》された教科書をそのまま日本語に焼きなおしたものばかりだった。 ◎死者の霊魂[#「◎死者の霊魂」はゴシック体]  その頃の教科書には、しばしば「日本鬼子《リーペンコエズ》」が登場した。「鬼子《コエズ》」とは他人に対する激しい罵倒《ばとう》に使われる中国語で、早く六朝《りくちよう》時代の著述に見える古いことばである。また十九世紀以降には、植民地で我がもの顔に暮らす西洋人をかげでこっそりと、「洋鬼子《ヤンコエズ》」と罵《ののし》ることもあった。  しかしこのことばは、中国で残虐な行為をはたらいた旧日本軍兵士を指して使われることが圧倒的に多い。かつての中国語教科書には、「紅軍《こうぐん》」(中国共産党軍)のゲリラ兵士や農民が勇猛果敢《ゆうもうかかん》に戦い、日本の「鬼子」をやっつける話がよく載っていた。こんな話でしか中国語を勉強できなかったのだから、思えば非常に哀《かな》しい時代だった。 [#挿絵(img¥13.jpg、横120×縦160、上寄せ)] 「鬼」は死者の霊魂を意味する文字で、古代文字では大きなお面をかぶった人の形に書かれている。死者を弔《とむら》う儀式では、そのような仮面をかぶって舞いが舞われたのだろう。  古代中国人が想像した「鬼」は、きっとおどろおどろしい顔だったにちがいない。しかし戦争中に「鬼」と呼ばれた者の子孫たちは、ごく普通の顔だちをしている。そして今、彼らの多くが使う教科書に、グルメの話はあっても「鬼子」はまったく出てこない。  時代という豆をぶつけられて、「鬼子」はどこかに行ってしまったのだろうか。 [#改ページ] 14 [#特大見出し] 親《おや》 [#地付き]親の出番   三月から四月にかけて、気候がようやく穏やかになる頃が、大学に勤めている者にとって、一年中でもっとも忙しい季節である。年が改まってすぐに在学生のための定期試験があって、その成績報告がやっとすんだかと思えば、今度は入学試験である。  当節の入学試験は、有名幼稚園から大学までいずれの学校でも、あたかも「親子タグマッチ」のごとき様相を呈しており、本番の試験当日まで長期にわたる苦労が続く。連日の猛勉強を維持するためには、勉強だけでなく健康管理の面も親子仲よく、二人三脚で乗り切らねばならない。近頃は小学生用のビタミンドリンクが販売されており、近所の薬局では大人用と子供用のドリンク剤がセットで売られている。聞けばやはり入試の季節がもっともよく売れるとのことである。  もちろん試験当日も親子同伴だ。だが気の毒なことに、国立大学の入試は一年でもっとも寒い時節におこなわれる。入試本番の日、子供が教室で試験を受けている間、親には別にすることがない。私が勤める大学には、保護者のための控え室など用意されていないから、親たちは寒風の吹きすさぶ野外で、試験がすむまでひたすらに待つしかない。 ◎近頃の大学生の親は[#「◎近頃の大学生の親は」はゴシック体]  こんなに苦労してやっと入った大学なのだからと、親は当然のごとく、入学式に出てくる。保護者同伴で入学式に出席していったいどこが悪い、とでもいわんばかりに堂々と着飾った親子連れが、近頃の大学ではずいぶん目立つようになった。大学生になった頃、私などは親と歩くのがたまらなく気恥ずかしかった。もちろん入学式に両親はこなかったし、私の友人たちも同じだった。だいたい子供が一人で電車に乗れるようになったら、もう放っておいたらいい、と私などは思うのだが。 「親」という字は≪木≫の上に≪立≫って≪見≫ると書く。だから子供がいくつになっても、親はかげでずっと見守ってくれているのです。 「親」という字については昔からこのような解釈がなされてきた。残念ながら、古い字形での「親」は、≪立≫の下が≪未≫になっているので、≪木≫の上に立っているというのは間違いである。それでも見えない所から子供を見守るというのは、実にいい話だ。ところが近頃の大学生の親は、堂々と正面にしゃしゃり出てくる。  いっそのこと、大学にも「授業参観日」を設けて、入学後のご子息ご令嬢の実態を見てもらったらどうだろう。日頃はバイト先にばかり顔を出していて、たまに大学に来ても、自分が登録している講義がおこなわれる教室の場所すらわからない、というようなていたらくに恥ずかしくなって、親たちはきっと木の上にでも登りたくなるにちがいない。 [#改ページ] 15 [#特大見出し] 御《おん》 [#地付き]御と中国人の誤解   日本と中国は、どちらも話しことばを書き取るのに同じように漢字を使う。だから旅行や仕事で中国に行って話しことばがわからなくとも、いざとなったら筆談だけでなんとかなる、という安易な考えをもつ人が多い。しかし同じように漢字で書かれた単語の意味が、日中両国で必ずしも同じになるとは限らない。有名な例では、中国語の「汽車」は「くるま」の意味だし、「手紙」とは「トイレット・ペーパー」のことだ。中国のレストランで「湯」をくださいといえば、「スープ」を運んでくるはずである。  知人の一人が訪中して、現地である若い女性に大変お世話になった。そこで帰国の際に、「私書手紙」とメモに書いて手渡したら、相手がきょとんとしたそうだ。それはそのはずで、その中国人女性は書き付けを「プライベートな書物はトイレット・ペーパー」と読んだのである。  いっぽうまた、中国人が日本語の漢字|語彙《ごい》の意味を誤解することだってもちろんある。  中国の労働組合関係の代表団が日本にきて、ある工場を見学していた時の話である。工場の壁に大きな字で、「油断一秒、怪我《けが》一生」と書かれていた。それを見た中国代表団の一人がしきりに感心し、「日本の工業が大発展をとげた背景には、こんなに厳格な個人の責任感が大きく作用していたのですね」と述べた。その中国人は先の標語を「油が一秒でもとぎれたら、私を一生とがめてください」という意味だと理解していたのである。 ◎「御婦人便所」に憤慨[#「◎「御婦人便所」に憤慨」はゴシック体] 「御」も中国人が誤解する字である。日本語ほど多くないものの、中国語にももちろん敬意表現はある。しかし敬意表現に使う接頭語は、「令息」や「高見」、「貴職」のように「令」であったり「高」や「貴」などで、「御」は使わない。「御」は、皇帝専用の事物に使う文字で、天子の印章を「御璽《ぎよじ》」といったのは戦前生まれの人なら「教育|勅語《ちよくご》」で知っているだろう。同じように、天子自身が書いた書画を「御筆」、天子の食事を作る部署を「御膳房」、天子が見ること、あるいは見る書物などを「御覧」といった。  皇帝がいなくなった現在の中国では、「御」はほとんどの場合「禦」の意味として使われる。「御者《ぎよしや》」とか「制御《せいぎよ》」の「御」だといえばわかりやすいだろう。つまり「御」は、「統《す》べる」とか「コントロールする」という意味の動詞として使われるのが普通である。  日本にやってきたばかりの中国人がデパートの中でトイレにいったところ、入り口のドアのひとつに「御婦人便所」と書かれていたのを見て、腰をぬかさんばかりに驚いた。立派なデパートに、こんなけしからん場所があるとは、とその中国人は憤慨《ふんがい》したのだが、それはいったいなぜだろうか。  この漢字の並びを中国語で読めば、「婦人を御するに便なるところ」、つまり女性にいうことを聞かせるのに都合のいい場所、という風にしか読めない。日本人はデパートの中で女性を手込めにする、とくだんの中国人は考えたのである。 [#改ページ] 16 [#特大見出し] 解《かい》 [#地付き]包丁《ほうちよう》名人の解   太古の昔、人類がまだ狩りによって食べ物を確保していた時、もっとも基本的な調理方法は捕らえた動物をそのまま丸焼きにすることだっただろう。獲物《えもの》がウサギや鳥ならば、丸焼きのまま手で肉を引き裂いてそのままかぶりつけばよい。だが鹿くらいの大きさになると、焼いたあと肉を切り分けなければならない。そこで必要になるのがナイフで、石器時代にはもちろん石でナイフを作った。こう考えれば、人類史上最初に登場した調理道具は、ナイフだったということになる。  料理用のナイフを指す「ほうちょう」を今の日本語では「包丁」と書くこともあるが、それは本来「庖丁」と書くべきことばである。「庖」とは料理人を意味する字である。古代中国には役人として国家に仕えるコックがいた。『周礼《しゆらい》』という儒学の経典によれば、周代には「庖人」という役人がいて、王の食事に使う家畜や鳥の管理と調理を管轄《かんかつ》していたという。 「庖丁」とは、『荘子《そうじ》』に見える丁《てい》という名前の料理人のことであった。料理の名人であった丁がある時、王の前で牛を解体して料理して見せた。丁が牛を解体する手さばきはまことにあざやかで、丁がリズミカルに牛刀を動かすにつれて、牛の肉は胴体から面白いようにサクサクと離れた。そのあまりの見事さに感心した王から、技術の秘訣《ひけつ》を問われて、丁は次のように答えた。  私とて最初は牛のどこから刀を入れていいものか、なかなかわかりませんでした。それが三年ほどたってからは、牛の体のそれぞれの部分が見えてきて、刀を入れるべき場所がようやくわかってまいりました。そして現在ではいちいち牛の体を目で見ながら仕事をするのではなく、自然のままの精神を会得《えとく》することによって、牛の体に本来的に備わっている筋目が見えてきました。そこに刀を入れれば、刀を骨にあてることなく、スムーズに解体できるのです。 ◎牛と刀と角[#「◎牛と刀と角」はゴシック体]  この牛さばきの名人の名前から「庖丁」ということばが生まれ、それが今では時に字を変えて「包丁」とも書かれるようになった。  この「庖丁」の話は『荘子』では「庖丁《ほうてい》 文恵君《ぶんけいくん》の為《ため》に牛を解《と》く」という文で始まるが、この「解」も、牛の解体を示すそのものズバリの漢字である。 「解」は字形からもわかるように≪牛≫と≪刀≫と≪角≫とからできており、牛のツノを刀で切り落としているさまを表す。だからその本来の意味は牛全体を解体することで、このようにものを切り分けることから「分解」の意味をもつようになった。  古代中国人は動物を料理用に解体することから、「解」という漢字を作った。殺生《せつしよう》禁断時代の日本でもしこの漢字を作っていたならば、≪牛≫の部分がきっと≪魚≫となっていたことだろう。 [#改ページ] 17 [#特大見出し] 顔《かお》 [#地付き]顔は看板   関西では顔が大きな赤ちゃんを「顔役《かおやく》」と呼ぶ。生まれたばかりの赤ちゃんを見て、「うわっ、この子はすごい顔役やな」というふうに使うのだが、この言い方は全国どこでも通用するのだろうか。顔役とはその仲間・土地で勢力があり名が通った人で、特に侠客《きようかく》や博徒《ばくと》などについていうことばだから、もちろん新生児がいきなりそんな顔役になるはずがない。これは「顔が大きい」から「顔が広い」、すなわち「交遊《こうゆう》が広い人物」→「顔役」という連想による諧謔《かいぎやく》(しゃれ。ユーモア)である。  顔はそれぞれの人間が正面に掲げている看板である。Aという人物を、他のBやCなどの人と区別するためのもっともわかりやすい指標は、なんといっても顔である(ただし一卵性双生児の場合は別である)。ただし同じ看板であっても商店のそれは、店の命運をそれほど左右しないが、人間の看板である顔は、造作の精巧さや美醜《びしゆう》が持ち主の運命を大きく左右する。看板の出来のよさだけに惹《ひ》かれ、すっかり目がくらんだあげくに人生を誤ってしまったというケースだって、身のまわりにごろごろしている。  人の喜怒哀楽《きどあいらく》の感情は、まず顔に端的に表れ、赤くなったり、青くなったりする。だから人の表情や面持《おもも》ちを「顔色」という。逆に、まともな人間らしい感情をもたない人では、喜怒哀楽の感情が顔に出ないが、それはその人の顔の皮が厚いためであると考えられた。そこから恥知らずの人物のことを中国で「厚顔《こうがん》」と表現するようになった。 ◎ツラの皮を削り落としたい[#「◎ツラの皮を削り落としたい」はゴシック体]  日本語でも「ツラの皮が厚い」というが、その言い方は中国では紀元前数世紀の時代から使われていた。『詩経《しきよう》』の「巧言」という詩に「蛇蛇《いい》たる碩言《せきげん》(実行できない出まかせのことば)は口より出で、巧言は簧《こう》(楽器のリード)のごとく、顔の厚きかな」とある。  現代の中国語では「厚かましい・ずうずうしい」ことを「臉皮厚」という。 「臉《れん》」は今の中国語で「かお」を意味する漢字だから、「臉皮厚」でやはり「ツラの皮が厚い」という意味である。  厚顔な人物はどこにでもしゃしゃり出てくる。だからすぐそばに厚かましい奴がいるのに、はっきりとそれをいえないという状況がしばしば発生する。そんな時、中国では右手の人差し指をのばして頬にあて、上から下にこする動作をする。このジェスチャーは、剃刀《かみそり》で顔の皮を削り取ることを表しており、そこから「顔の皮が厚い」の意味を伝えようとするのである。  残念ながら、剃刀になぞらえた指では、厚いツラの皮は削れない。読者各位のまわりには、本当に剃刀で皮をごっそりと削り落としてやりたい人物がたくさんいるのではなかろうか。もちろん私の周囲にもそんな輩《やから》がいっぱいいる。 [#改ページ] 18 [#特大見出し] 香《かおり》 [#地付き]グルメは香にこだわる   西太后《せいたいごう》(一八三五〜一九〇八)といえば、清朝《しんちよう》末期の中国を牛耳《ぎゆうじ》り、皇帝に代わって最高権力者としてふるまった女性だが、彼女はまたたいへんなグルメでもあった。おいしい料理の代表とされる中華料理の本国で、ましてやどのような食材だって手に入る宮中のことだから、西太后の食卓には「山海の珍味」というような単純なことばではとうてい表現できないものばかりが並んでいた。今の北京《ペキン》にはそんな宮廷料理を食べさせてくれるレストランがあり、そこでもやはり西太后|御用達《ごようたし》の料理やお菓子が人気メニューになっている。  彼女の時代にはもう写真があって、結構たくさんのスナップが残っている。写真で見る西太后は見るからに気が強くて強欲そうなばあさんで、それが宮殿の花園で観音さまの格好をしたりして遊んでいるのだから、近頃の若者のことばでいえばまったく「超ムカつく」光景である。  このような西太后の写真を見ていると、彼女が座っている横や後ろによく、大皿に山盛りにされた果物が置かれていることに気づく。リンゴか桃のように見えるが、これは食べるためではなく、西太后がいつも新鮮な果物の香りで包まれるようにと置かれたものだった。これを「香果」という。果物は時間がたてばだんだん香りがなくなるから、西太后の周りの「香果」は、一日に五〜六回も取り換えられた。西太后は香りには非常に神経質な人物だったらしい。 ◎人生の至福[#「◎人生の至福」はゴシック体]  グルメが香りにこだわるのは当然である。香りは生活する場の雰囲気を左右するだけでなく、食事の楽しさにも大いに影響をあたえるからだ。特に日本酒やワインのような飲み物に関しては、香りのよしあしがその評価を決定するといっても過言ではない。 「香」という字を分解すると≪禾≫と≪曰≫になるが、≪禾≫は「黍」(きび)の、≪曰≫は「甘」(あまい・うまい)の省略形であり、この字は「キビでつくったおいしい酒」がもともとの意味だった。それがやがて、酒が発するいい匂いを意味するようになり、さらに広く一般的なよい匂いを意味するようになったのである。 [#挿絵(img¥18.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  近頃は全国の地酒をとり扱う酒屋さんが増えてきたので、良心的な酒蔵がつくった質のいい酒を、家の近くで簡単に入手できるようになった。まだ味わったことのない地方の銘酒を手に入れ、わくわくしながら瓶の封を切った時に、果物に似た芳醇《ほうじゆん》な香りがたちのぼるのを感じるのは、人生の至福《しふく》といってもいいほどに嬉しいものだ。  もしも私に西太后のような贅沢《ぜいたく》が許されるのならば、果物よりもむしろ、馥郁《ふくいく》たる酒の香りで身のまわりをいつも充たしたいものだ、と切に思う。 [#挿絵(img¥p047.jpg)] 19 [#特大見出し] 風《かぜ》 [#地付き]風月の悦楽   朝の通勤電車の中に、サラリーマンにまじって登山姿の人を見かけることがしばしばある。だいたいは年配の人であり、会社をリタイアした人たちが、健康維持のためにサークルを作ってハイキングに出かけておられるようだ。  健康作りのためにも、登山はいいことだ。山登りにはもともと苦行の要素が含まれるべきで、頂上付近までドライブウェイがある山に、車であがっていくような行為は、その道に精進《しようじん》を積む人にとっては邪道《じやどう》以外の何ものでもないだろう。  中国の山東《さんとう》省にある泰山《たいざん》は、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》(前二五九〜前二一〇)や漢の武帝《ぶてい》(前一五六〜前八七)が天を祭った聖地で、古くから霊山として信仰を集めてきた。泰山は標高一五〇〇メートル余りの、それほど高い山ではないが、周囲に山がないので、そこだけどんとそびえ立っているように見え、なるほど名山の名に恥じない風格がある。  泰山に登るには、もともとは麓《ふもと》から九キロにわたって、六千もの石段が続く長い登山道を使うしか方法がなかったのだが、一九八三年に中腹から山頂のすぐ下までロープウェイが作られた。それで今では簡単に登れる山となったのだが、しかし中国にもやはり、ロープウェイなどによる登山は邪道で、それでは聖地の神髄《しんずい》を味わえないとする意見が今も根強く存在する。 ◎尼たちのサービス[#「◎尼たちのサービス」はゴシック体]  ロープウェイを使うことの批判は、単にそれが楽であるということだけでなく、旧来の登山道に沿って点在する歴史的な名所が見学できないということもある。  古い登山道の中腹に、斗母宮《とうぼきゆう》という道教寺院がある。ここはもともと尼寺だったが、地位の高い官僚などが泰山に詣《もう》でる時に宿舎として利用されることがあった。 [#挿絵(img¥p051.jpg)]  その斗母宮のすぐ下に、図のような奇妙な文字を刻んだ石碑がある。これは「風月」という漢字の外側の線を取り去った形であり、この形で「風月無辺」と読む。「無辺」とは「外側がない」という意味であり、それとは別に「際限がない」という意味もある。つまり、深山の夜に明るい月と清らかな風がどこまでも限りなく広がる荘厳な風景をたたえた字句と解釈されている。  しかしこの石碑には、実はもうひとつ別の意味が隠されている。それは尼寺に暮らす尼たちが、泊まりにきた官僚たちに対して、際限がないほどの男女のサービスをほどこすことを「たたえ」ているのである。  中国語の「風月」には、単に「風と月」という意味以外に、なんと男女の行為を指す使い方がある。泰山に参詣《さんけい》に訪れた高官にしっかりサービスしておけば、寺院にとっても後々なにかと便利だったのだろう。それで尼たちは「無辺」のサービスをおこなったようだ。要するにこちらの「風月無辺」は、限りない淫乱《いんらん》という意味であった。  ロープウェイを使わずに泰山に登ると、こんな話を仕入れることもできる。苦労をした甲斐《かい》があったというものだ。 [#改ページ] 20 [#特大見出し] 髪《かみ》 [#地付き]髪は抜け落ちない?   子:「ねぇお母さん、猫ってどうしてネコというの?」  母:「それはね、ほらよく見てごらん。猫って一日中ずっとどこかで寝ているでしょう。よく寝るコだから、それでネコっていうのよ」  ネコという名詞の語源に関して、こんな説明をされたとしたら、それを信用する人なんかまずいないだろう。しかしこのようにある単語や文字の意味を説明する時に、それと同音か、またはよく似た音をもつ他の文字に置き換えて意味を解釈する方法が、中国では後漢の頃を中心としてよく用いられた。このような方法を「声訓《せいくん》」という。  特に『説文解字《せつもんかいじ》』より少し後の時代に劉煕《りゆうき》が著わした字書『釈名《しやくみよう》』は、このような声訓の方法を駆使《くし》して文字を解釈した、ユニークな書物である。  その『釈名』に「髪は抜《ばつ》なり、抜擢《ばつてき》して出るなり」とある。これは「髪《はつ》」という字の意味を、それと音の近い「抜《はつ》」に結びつけて解釈しているのだが、ただしこの場合の「抜」は通常の「ぬける」という意味ではない。すぐ後に書かれているように、これは「抜擢」、つまり「引きぬく」とか「伸びる」という意味で使われているのである。つまり「髪」とは引っ張りだされるようにして伸びるものである、といっているのであって、頭髪はいつか必ず抜け落ちてしまう、という意味では決してない。日に日に薄くなりつつある向きも、どうか安心されたい。 ◎ハゲも役立つ[#「◎ハゲも役立つ」はゴシック体]  かつて活躍した有名なアナウンサーがテレビでいっていたが、人気アナウンサーになるためにはハゲ・チビ・デブのいずれかに該当しなければならないそうだ。そのアナウンサーは幸か不幸か、三つの条件をすべて完全に満足させていたので、非常に人気のあるアナウンサーとなったが、男の悩みといえるこのハゲとチビとデブのうち、直すことができるのはデブだけである。デブはいわゆるダイエットなどで、がんばれば直すことができる。だが大人になってもチビだったら、それ以後に背丈が伸びる可能性はまずない。  そしてハゲである。私は幸いにまだこの問題とは無縁なのだが、世の多くの男性の悲願はこれに集約できるようだ。  ちょうど中国が改革開放政策をさかんに展開していた頃、「|101《いちまるいち》」という薬が大きな話題になった。その頃には中国に行く人をつかまえて、例の「101」とやらを買ってきてくれよ、と頼む人が多かった。たぶんわらにもすがる気持ちだったのだろう。私も何人かの知人からこっそり頼まれ、何本か買ってきた。ブームだったから、なかなかの値段だった。しかしいわれていたような効果はなく、多くの人々の期待は、むなしく裏切られただけであった。  101ブームで喜んだのは中国だけだった。その頃の中国経済は、まるで倍々ゲームのように発展を遂げていたが、その原動力の中にきっと101がからんでいたにちがいない。ハゲもたまには役に立つものだ。 [#改ページ] 21 [#特大見出し] 雷《かみなり》 [#地付き]雷とへそ   大地を揺るがす轟音《ごうおん》とともに天地をまっぷたつに裂き、あたり一面を真昼のように輝かせるかみなりを、昔の中国人はぐるぐると回転する形で表現した。古代の青銅器の紋様などに使われる雷紋《らいもん》がそれであり、もっとも身近なものとしてはラーメンの丼《どんぶり》の周囲にも描かれている。文字としては、「雷」の下半分に≪田≫という形で使われているのがそれだ。これは「たんぼ」を意味する文字ではなく、宇宙の気(カオス)が回転するさまを描いた形なのである。  昔の中国では、天候や季節の移り変わりを陰と陽の「気」のバランスで説明した。人の性格にも陽気と陰気があるように、世の中には陽(プラス)と陰(マイナス)の「気」があって、それが互いに接触し、相手のところに行こうとして回転する。その時に発生するのが「雷」だというのだ。こうして気がめぐって季節が移り変わり、大地に陽の気が満ちて夏となってゆく。  梅雨も末期になり、盛夏が近づくと、かみなりがしきりに鳴る。かみなりのメカニズムについては学校で一通り習ったから、それが単なる放電現象だとわかってはいる。しかしそれでもあの恐ろしい轟音は、いくつになってもあまり気持ちいいものではない。実際かみなりに打たれて命を落とすという気の毒な事件も、毎年のように発生している。 ◎かみなりさまの威を借りて[#「◎かみなりさまの威を借りて」はゴシック体]  昔はかみなりが鳴ったら大急ぎで蚊帳《かや》の中に入れ、と教えられた。おなかを出して寝ていると、かみなりさまにおへそを取られるぞ、とも脅《おど》かされた。かみなりが鳴るのはちょうど蚊が増えだす時期である。さらに雨が降ると、蚊が家の中にたくさん入ってくる。そこで子供を少しでも蚊から守ってやろうとして、蚊帳に入れとか、へそを出して寝るな、と子供をしつけたらしい。  盛夏を目前にしたこの時期には、かみなりという自然現象を借りた生活の知恵が、かつての日本にはあった。しかし日本の家屋の形態が変わり、また農薬や殺虫剤が使われるようになって、蚊もずいぶんと減った。網戸が普及したからか、蚊帳を目にすることなどほとんどなくなった。  かみなりがへそを取るというような話が、今時の分別くさい子供に通用するはずがない。子供どころか、妙齢の女性がおへそを丸出しにしたまま、時にはなんとそこにピアスまでつけて、白昼に繁華街のど真ん中を堂々と闊歩《かつぽ》している時代である。  昔むかし、若い娘の太股《ふともも》に目がくらんで空から落ちた仙人がいたという。現代のかみなりの中にも、もしかしたらヤングギャルのへそピアスめがけて求愛に降りてくるものがあるかもしれない。くわばらくわばら。へそ出しルックの女性にはあまり近寄らない方がいいようだ。 [#改ページ] 22 [#特大見出し] 亀《かめ》 [#地付き]亀の値打ち  「亀」という字形からは少しわかりにくいが、本来の字形である「龜」を見れば、それが亀をかたどった象形文字であることが容易に見てとれる。 [#挿絵(img¥22.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  亀はもともと中国では非常に神聖な動物だった。神話では、人間が暮らす大地は大きな亀の上に乗っているとされたし、殷《いん》という古代王朝では、亀の甲羅《こうら》を使った占いで神のお告げを聞き、それを国家の行動方針とした。  亀には神聖な神のお告げが下る。だから亀そのものも神聖な動物と考えられ、亀は非常に厳重に管理されたようだ。近くにある河でちょいと亀を捕まえてきて、それを殺して占いに使う、というようなお手軽で簡単なものではなかったようだ。この時代、国の運命を左右するのは実に亀なのであった。  しかし時代とともに、亀の値打ちはどんどんさがっていった。中国、南北朝の時代(四三九〜五八九)、だいたい五〜六世紀くらいには、人を罵《ののし》る表現に「亀」が登場する。その頃から亀は罵倒《ばとう》語に使われるあわれな動物となってしまった。  最近ではほとんど耳にしなくなったが、「アンポンタン」という日本語がある。このことばはもともと中国語の「王八蛋《ワンパータン》」(wan ba dan)が語源だという。  しかし「王八蛋」は「アンポンタン」というようなかわいいニュアンスをもつものでは決してなく、このことばを口にしたが最後、なぐりあいの喧嘩《けんか》になって当然という、それはそれは激しい罵倒表現なのである。 ◎「恥」のない交尾[#「◎「恥」のない交尾」はゴシック体]  王八蛋は古くは「忘八蛋」と書いた。「忘八」とは「八番目の徳を忘れた」との意で、これは「亀」の異名であった。末尾の「蛋」は罵倒表現に使われる接尾語である。  人間として暮らすには絶対に必要な八種の道徳があって、それは孝《こう》・悌《てい》・忠・信・礼・義・廉《れん》・恥《ち》である。しかし亀にはこの最後の「恥」がない。その証拠にメス亀はオスの蛇と平気で交わるとか、亀は往来のどまんなかでも平気で交尾《こうび》をおこなうとか、亀は実にぼろくそにいわれている。 「王八蛋」とは相手を恥知らずの亀になぞらえた、まことに悪意にみちた罵倒表現である。しかし生半可《なまはんか》に中国語をかじった人の中には、「王八蛋」を日本語の「馬鹿」程度の意味と誤解し、会話の中で気軽に使う人がいる。私は以前、北京である日本人がいとも気軽にこのことばを発するのを聞いて心底びっくりした経験がある。  いったんこのことばを発すれば、あとは喧嘩にならないほうが不思議である。それくらい強烈なことばだから、インテリはまず使わないし、まして外国人が使うような表現ではない。亀には悪いけれど、この際あたまの中の単語帳から抹殺してしまいたい表現である。 [#改ページ] 23 [#特大見出し] 烏《からす》 [#地付き]烏の徳  カラスという鳥は、だいたいどこでも嫌われ者と相場が決まっているようだ。日本の昔話ではゴンベエが蒔《ま》いた種をほじくるし、また木の枝にとまって「アホー、アホー」と人を小馬鹿にしたように鳴く。西洋のおとぎ話でも、カラスが善玉として登場することはほとんどなく、だいたい意地悪でずるがしこい表象として使われている。  カラスには動物の死肉にむらがる習性があるから、それだけでもいいイメージをもたれない鳥だが、嫌われる最大の原因は、やはりあの色だろう。「髪はカラスの濡《ぬ》れ羽色」といえばいささか色っぽい表現だが、しかしもし「自然界真っ黒度コンテスト」というようなものがあれば、カラスは石炭とともに優勝候補の筆頭にあげられるであろう。あれほどに純黒の生き物というのも珍しい。  ところで「烏」という漢字は「鳥」と形が非常によく似ており、両者のちがいは一本の横線の有無だけである。この「烏」が「鳥」より横線が一本少ないのも、実はカラスの純黒のゆえなのである。  中国最古の文字学書である『説文解字』に注釈を書いた清《しん》の大学者、段玉裁《だんぎよくさい》(一七三五〜一八一五)は次のようにいう。 ≪鳥≫は睛《ひとみ》を点ずるも、「烏」は則《すなわ》ちしかならず。純黒なるをもって、故にその睛を見ず。  この説明によれば、「烏」と「鳥」の違いとなる一本線は鳥の目を表すものだが、カラスは顔の部分まで真っ黒だから、ひとみがはっきり見えない。それでその部分に線を書かない、というのだ。いささか人を喰ったような説明にも思えるが、しかし甲骨文字以来一貫して、「烏」が「鳥」より線が一本少なく書かれているのは事実である。 ◎カラスの美点とは[#「◎カラスの美点とは」はゴシック体]  段玉裁はカラスのひとみの有無について論じているが、その議論の発端にある『説文解字』の解釈によれば、カラスにもちゃんと美点があり、カラスは非常に親孝行だというのである。『説文解字』では「烏」を「孝鳥なり」と記している。カラスには「反哺《はんぽ》の孝《こう》」という徳があって、雛鳥《ひなどり》が成長し、自分で餌をとってこれるようになると、これまで自分を育ててくれた親鳥の分まで餌をとってきて、老いた両親に差し出すというのである。子供が親を養うことから、これを「反哺」という。  だがカラスはやはり憎い。生ゴミ回収の日には、我が家のすぐ向かいにあるゴミステーションのまわりが、朝早くからさわがしくなる。カラスがどこからともなく飛んできて、人の目を盗んではビニール袋を破って、中の残飯を引っぱり出すからだ。このカラスがもしも「反哺の孝」を実践しているのならほめてやりたいところだが、とった餌は自分ですぐに食っているようだ。こんなカラスは一日も早く退治したいものだ。 [#改ページ] 24 [#特大見出し] 黄《き》 [#地付き]黄は劣情《れつじよう》の色   大阪の中心部を南北に貫く幹線道路の中でももっともにぎやかな御堂筋《みどうすじ》には、街路樹としてイチョウがずっと植えられている。我が生まれ故郷だからよく知っているが、大阪は、緑が少ないといわれる全国の大都会の中でも実に横綱的存在で、あきれるほどに殺風景な都市である。だがこの通りの両側だけは、イチョウ並木のおかげでふだんから青々としていて、大阪の中ではまずまず緑が潤沢《じゆんたく》だといえる。  このイチョウ並木が、秋もだいぶ深まった頃になると、それはそれはみごとな黄金《こがね》色に染まる。そんな季節には、所用のために一人で町を歩いているだけでも、なんとなく心が華やぐものだ。  きっと黄金からの連想なのだろう、黄色には豪華で力強く感じられるイメージがある。そしてそのゆえに、過去の中国では黄色はもっとも高貴な色とされ、その色を使うことができるのは皇帝だけだった。かつて中国の皇帝が暮らした壮大な宮殿が今も「故宮《こきゆう》」として北京《ペキン》に残っているが、そこの屋根はすべて黄色い瓦《かわら》で葺《ふ》かれている。黄色は皇帝がおわします聖地であることを示すために使われた色で、どんなに権力や財産があっても、民間人で黄色の衣服を着たり、家の壁を黄色に塗ったりすれば、それだけで罪に問われ、まず命はなかった。  しかしその皇帝専用の高貴な色が、今ではなんと、「いやらしい」とか「わいせつな」という意味で使われるようになってしまった。もちろん「黄色」という語にはちゃんとした色彩を表す意味があるのだが、それ以外に、今の中国語ではたとえば猥談《わいだん》のことを「黄話」といい、ポルノ文学を「黄色文学」とか「黄色刊物」といったりする。 ◎懐かしや「桃色」[#「◎懐かしや「桃色」」はゴシック体]  皇帝専用だった「秘色」も、実に落ちたものだ。なんでそうなったかを調べると、その由来はどうやら一九三〇年代の上海《シヤンハイ》にあるらしい。  その頃の上海で大流行した雑誌に掲載されていたマンガに「イエロー・キッド」という少年が登場し、こいつが女の子をナンパしたり、ろくでもないことばかりしでかす奴だった。それで「黄色」にそのような意味が与えられたらしい。黄色にとってはまったく迷惑な話だ。  とここまで書いてきて、ふと考えたのだが、英語でいう「ブルー・フィルム」を日本語では「ピンク映画」というが、なぜピンクなのだろう?  察するところ、どうやら昔の女性が和服を着るときに身につけていた腰巻きがほとんど桃色だったことから、煽情《せんじよう》的なものをピンクで表すようになったのではないだろうか。しかしその腰巻きというものを見なくなってから、もうずいぶん時間がたつ。そして近頃では「アダルトビデオ」とかの流行で、「ピンク映画」という言い方すら、ほとんど聞かれなくなってしまった。平成も二桁《ふたけた》を数えるようになって、昭和もすでに遠くなったのかもしれない。 [#挿絵(img¥p061.jpg)] 25 [#特大見出し] 菊《きく》 [#地付き]菊の効用   たぶん全国各地でおこなわれている催しなのだろうが、私が暮らす関西でも、秋になると遊園地で恒例の「菊人形展」が開かれる。そこでは年ごとに有名な歴史上の人物を選んでテーマとする。ただ選ぶといっても、徳川|吉宗《よしむね》の次が秀吉で、さらに毛利元就《もうりもとなり》、徳川|慶喜《よしのぶ》、そして大石内蔵助《おおいしくらのすけ》とくれば、主題がどのように選ばれているのかは、テレビを見ている人ならすぐにわかることだろう。  この人形は、人物の衣装や関連する建築物などをさまざまな菊で仕立てたものである。だから話の主人公が吉宗であろうが内蔵助であろうが、展覧会の趣向自体に変化はない。展覧会の主人公は秀吉や慶喜などの歴史的人物ではなく、むしろ菊なのである。  ただ一種類の植物だけで、種々の豪華な衣装やカラフルな建物などを作ることができることからもわかるように、菊には実にさまざまな品種がある。大きさだけでも、子供の頭くらいある大きなものから、親指の先ほど小さなものまであるし、花の色も驚くほどバラエティに富んでいる。一説によれば、菊の品種の数は九百をこえるという。  菊がこれほどまでに多様な発達をとげたのは、ひとえに過去の中国で品種改良が繰り返された結果である。菊は牡丹《ぼたん》とともに中国人がもっとも愛好する花で、秋になると中国ではいたるところに菊が咲きみだれる。特に「国慶節《こつけいせつ》」(十月一日)前後に、あの広大な天安門《てんあんもん》広場一面が菊で埋もれるのは、なかなかの壮観である。 ◎夕食のおかず[#「◎夕食のおかず」はゴシック体]  しかし菊は単なる美的観賞の対象にとどまらず、かつての中国医学では、菊には薬剤的な効能があるとされていた。菊の花を詰めた枕は頭痛に効果があると漢方の医学書には書かれているし、乾燥させた菊の花びらを入れた「菊花茶」は、目の神経の疲れを癒すという。  さらに古くは、菊の花を食べると仙人になれるという信仰まであった。  世俗の交わりを避け、田園地帯で閑静な生活を送った、東晋《とうしん》の詩人として知られる陶淵明《とうえんめい》(三六五〜四二七)が詠んだ詩(「飲酒その五」)に、   菊を采《と》る 東籬《とうり》の下   悠然として南山《なんざん》を見る という有名な一節がある。いおりの東にある垣根のもとにうずくまって菊を摘《つ》み、ふと目をあげれば、遠くにそびえたつ南山の雄大な姿が目に入ってくる、と詩人は歌う。  ひっそりと暮らす隠者《いんじや》と菊の取り合わせは、まさに東洋的な風雅《ふうが》の趣を感じさせるが、しかしここで陶淵明が菊を摘んでいるのは、決して一輪挿《いちりんざ》しに活けて花を愛《め》でようとしてのことではない。この菊は食用であり、彼は実は夕食のおかずとして、庭の菊を摘んでいたのである。こう考えると、この詩の味わいもなんとなく色あせてくるような気がするが、しかし熱燗《あつかん》に菊というのも案外オツなものかもしれない。 [#挿絵(img¥p065.jpg)] 26 [#特大見出し] 恭《きょう》 [#地付き]恭子さん、ごめんなさい   知人に恭子さんという人がいて、その名前を打つためにワープロをたたいていたら、「恭」という漢字がなかなか出てこない。ふと思いついて、「きょうがしんねん」と入力して変換すると、一発で「恭賀新年」と出た。日本の家庭でワープロがもっとも活躍するのは年賀状を作るためだそうだが、そのためにメーカーがこらした工夫が、こんなところにまで反映されているのだな、とあらためて感じた。  年賀状で定型語として使われる「恭賀新年」を、漢文式に読み下せば、「恭《うやうや》しく新年を賀す」となる。この「恭」という漢字は、現在の中国語でも結婚や出産などのおめでたごとを祝う時に常用される。そこまでは日本語とほぼ同じなのだが、中国ではこのような「うやうやしい」という意味の他に、この字にはなんとまぁ、「大便」という意味がある。現代中国の規範的な辞書である『現代漢語辞典』によれば、「出恭」とは「大便を排泄《はいせつ》する」ことであり、また便器のおまるを「恭桶」というとも書かれている。 「うやうやしい」という意味の「恭」が、「大便」という、およそ「うやうやしさ」の対極にあるものを意味するのはまことに不思議なことだが、これには実は深い歴史的背景がある。 ◎試験中の大便[#「◎試験中の大便」はゴシック体]  話は「科挙《かきよ》」に由来する。科挙とは過去の中国でおこなわれた「上級国家公務員採用試験」で、よく知られているように、古今東西これまでの人類の歴史の中でもっとも難しい試験とされる。  科挙はまずそれぞれの地方ごとに第一段階の試験をおこない、次にその合格者だけを首都に集めて第二試験をおこなう。さらに最後には皇帝臨席のもとに最終試験をおこなうという、非常に複雑なシステムで実施されたのだが、第一段階の地方試験を受けるためにも資格が必要で、それを得るためにもやはり試験を受けなければならなかった。  この最初の試験は、各地の役所に設けられた特設試験会場で実施されたのだが、試験中は室外に出るのはもちろんのこと、座席を離れることさえまったく許されない。ただし飲茶と用便だけは、一回に限って、室外に出ることを許された。その時には受験者は書きかけの答案用紙を係官に預け、「出恭入敬」(出る際にはうやうやしく、入る時には礼儀正しく)と書かれた木札を受け取って、室外に出るというきまりであった。  ただ実際にはその手続きはかなり面倒であり、時間も惜しいので、多くの受験生は試験場内に「不浄瓶」(しびん)を持ちこんで、小用の時にはそれで用を足した。だから実際に室外に出るのは、ほとんどが大便のためだった。それで木札に書かれた「出るには恭」という表現から、「恭」が大便という意味を持つようになったというわけである。もし恭子さんというお名前の方がこの文を読んでくださっていたら、お詫《わ》びします。 [#改ページ] 27 [#特大見出し] 饗《きょう》 [#地付き]饗宴《きようえん》は最大の幸福   漢字にはものを食べる姿や、あるいは食べる時に使う道具の形からできたものがいくつかある。  たとえば「豐」の下にある≪豆《とう》≫は長い脚のついた皿であり、そこに穀物などを盛って神棚にお供えした。  また「即」や「既」の左にある≪皀≫も、食品を盛りつける高坏《たかつき》に食物が盛られたさまをかたどったものであり、これに上から蓋《ふた》をかぶせた形が「食」である。「食」の本来の意味は、容器に盛られて蓋をかぶせられた食物であった。 [#挿絵(img¥27_01.jpg、横120×縦400、上寄せ)]  このような食品に向かってこれからかぶりつこうとしている形が「即」で、その人が顔を反対側に向けると「既」になる。この「即」と「既」はもともと兄弟の関係にある字で、≪皀≫の右にある≪旡≫は、ひざまずいた人が大きく開けた口を食物とは反対の方向にそむけた形を示している。  つまりこの字はもうおなかいっぱいで、これ以上食事をする気がなく、食品から顔をそむけることを表しており、そこから「事柄がすでに終了した」という意味で使われるようになった。  この「即」や「既」と同じ系列にある文字に、「郷」「卿」「饗」という一群の漢字がある。 ◎「郷」「卿」「饗」のルーツは一つ[#「◎「郷」「卿」「饗」のルーツは一つ」はゴシック体]  これらの文字はもともと同じ形に書かれていたのだが、やがて後に字形が分化して三文字となった。  そのもともとの形は≪皀≫、すなわち盛りあげられたご馳走を中央にして、ひざまずいて口を開けた人が両側から食らいつこうとするさまを示している。 [#挿絵(img¥27_02.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  ここに描かれているような、何人かでいっしょにおこなう食事は、おそらく宮廷で王から与えられた饗宴であって、そのような食事の場に出席できる身分の者を「卿」といい、また人と人が向かい合って座ることを「郷」といった。 「郷」の本来の意味は「向かい合う」ことで、それが「郷里・郷土」の意味で使われるようになったのは、同音による当て字の使い方、つまり「仮借《かしや》」という方法によるものである。  さらにまたこの字形から、誰かに食事をご馳走することを表す「饗」という漢字が作られたのだが、その字は≪郷≫の下に、ごていねいにももう一つ≪食≫を加えている。だから「饗」には、食べることを示す要素がダブって使われているということになる。  昔は食べることが最大の幸福だった。だが「グルメ」という薄っぺらなことばが流行《はや》るとともに、それと二律背反《にりつはいはん》的な意味をもつダイエットということばが跋扈《ばつこ》するようになった現代では、「饗宴」と呼べるような豪華な食事にはめったにお目にかからなくなった。不幸な時代である、と肥満体の私は思う。 [#挿絵(img¥p069.jpg)] 28 [#特大見出し] 業《ぎょう》 [#地付き]業はやらねばならないこと   何年か前、八月の旧盆明けに北海道東部を旅行したことがある。釧路《くしろ》までやってきて、ついでに北方領土を見に根室《ねむろ》に向かおうと思った。だが釧路から根室に向かう鉄道は、一日に数本しか電車が走らない。釧路駅で立ち食いのソバなど食べながらずいぶん待って、ようやく発車の時刻になったら、まだ八月だというのに黒い制服を着込んだ高校生の一団がドヤドヤと乗りこんできて、電車はほぼ満席になった。彼らは思い思いに席にすわると、いきなり教科書を開いて勉強し始めた。不思議に思って聞いてみると、このあたりの学校では盆明けから二学期が始まり、さらにはすぐに試験がおこなわれるとのことだった。  北海道では当たり前のことだろうが、冬の寒さが厳しいところでは学校の夏休みが八月中旬に終わることを、私はその時はじめて知った。さぁいよいよ夏休み最後の遊びでラストスパートをかけるぞという時期に、早々と二学期が始まってしまうのだから、北国の子供が気の毒に感じられた。だがもちろんその代償もあって、夏休みが短い代わりに、冬休みが正月をはさんで一ヵ月ほどあるらしい。夏をとるか冬をとるか、どちらがいいか一概にはいえないようだ。  夏や冬の長い休みが終わり、ふたたび登校する日には「始業式」という式典がある。この「業」はいうまでもなく「学業」の略だが、同じ「始業」ということばが会社で使われると(たとえば「始業ベル」)、それは「業務」の略である。学生とサラリーマンのどちらにとっても、本来的にやらねばならないことを「業」といい、日本語ではそれを「なりわい」と訓じる。 ◎もとは土木工事の板[#「◎もとは土木工事の板」はゴシック体]  ところで「業」は漢和辞典では何の部首に属するだろうか。答えは≪木≫部であり、「業」はもともと木に関係する文字だった。 「業」とはギザギザの歯がついた鑿《のみ》を丸太にうちこみ、大きな板を切り出そうとしている形を表す漢字である。 [#挿絵(img¥28.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  こうして切り出した大きな板を横に何枚か並べ、その間に土をぎっしりと詰める。この土を上から何度も強くつきかためれば、非常に堅くしまった土塊《どかい》ができる。この方法を上に上にと重ねていけば、土塊はやがてきわめて堅固《けんご》な壁となる。  古代中国ではこうして城壁や宮殿の土台などを作った。かの万里の長城だって、最初はこの方法で作られたのである。 「業」はもともとこのような土木工事に使う板のことで、そこから「事業」という意味に使われるようになった。  重要な工事に使う板だから、「業」は堅牢《けんろう》なものでなければならない。つまり学業でも業務でも、しっかりした基礎が必要なのである。だが世間には基礎をおろそかにして、結果だけを求める人が非常に多い。実に困ったものである。 [#改ページ] 29 [#特大見出し] |※[#「金/(金+金)」、unicode946b]《きん》 [#地付き]※[#「金/(金+金)」、unicode946b]は金|儲《もう》けの願い   初めての中国旅行から帰ってきた女性から、いささか興奮した口調の電話がかかってきた。四方山話《よもやまばなし》の中で、現代中国の漢字の使い方が理解できない、と彼女はいう。  街角では一般に簡略化した字体が使われているのに、逆にごくごく簡単な漢字をびっくりするくらいにややこしく書いたりすることもある。私は「金」を三つも重ねた漢字を使った看板をなんども見た。単に「金」と書けばよいものを、わざわざ三つも重ねて書くのは文字改革の動きに逆行するものだ、とかつて熱烈な毛沢東ファンだった彼女は、いささかオカンムリの様子だった。  彼女が見たのは「※[#「金/(金+金)」、unicode946b]」という漢字である。これは日本語では「キン」または「コン」と読む。北宋《ほくそう》の時代(九六〇〜一一二七)に作られた『大広益会玉篇《だいこうえきかいぎよくへん》』という辞書に初めて見えるから、比較的新しい漢字である。  この字は中国人の名前や商店の屋号などに今もしばしば使われる。しかし「金」の異体字ではないから、彼女がいうように「※[#「金/(金+金)」、unicode946b]」を単に「金」一つで書けばよいというわけではない。  商店名に使われるのは、見ての通り「金」を三つ重ねた文字だから、商店が繁栄してお金がたくさん儲かるように、との願いをこめてである。しかし人名に使うのは必ずしも金銭的に潤沢《じゆんたく》であることを祈るものではない。その背景には過去の中国で普遍的な思想であった「五行《ごぎよう》思想」が関係している。 ◎五行思想とは[#「◎五行思想とは」はゴシック体] 「五行思想」とは人が暮らす世界を木《もつ》・火《か》・土《ど》・金《ごん》・水《すい》の五種の要素に分解し、各要素を組み合わせる時の増減|多寡《たか》によって社会の変化を説明する考え方である。この五行は人をめぐる時間にも配当され、すべての人間は生まれた日に備わっている「五行」の組み合わせで、運命が定められていると考えられた。  かつての縁談では、夫婦の相性を判断する最大のよりどころがこの五行であった。縁談はまず両者の生年月日に関連づけられている五行を書いた紙を交換し、それを占い師に見てもらうことから始まった。  人の生年月日には、木火土金水の五要素が均等に配当されていることが望ましい。しかしそれがアンバランスで、ある要素だけが極端に不足する場合だってもちろんある。そういう時には、文字によって足らない要素が補われた。  たとえばある人物の生年月日に「火」の要素が足りなければ、「炳《へい》」などの≪火≫ヘンの文字を名前に使うことで、その人に「火」の要素を補充した。  同じように「金」の要素が不足しておれば名前に≪金≫ヘンの文字を使った。そしてそんな時、「※[#「金/(金+金)」、unicode946b]」は抜群の効果を発揮した。なにせ「金」が三つもあるのだから。  誰だ、おれだって「金」なら二つもってるなんていってるのは! [#改ページ] 30 [#特大見出し] 苦《く》 [#地付き]苦は植物の名前   中国最古の詩集である『詩経』は、もともとたくさんあった詩の中から、一般人民の教化に役立つものを孔子(前五五一〜前四七九)が選んで編集したとされているが、そのわりにはずいぶんなまぐさい詩が入っている。  たとえば「谷風《こくふう》」という詩は、夫から棄てられた妻が、むかし共稼ぎで働いていた時の苦労をあれこれと並べたて、新しい妻といちゃつく夫を恨《うら》むという内容で、こんな詩が人民の教化に役立つとはあまり思えない。  家を追い出され、実家にむかってとぼとぼ歩く妻は、自分のつらく悲しい気持ちを、「誰か荼《と》を苦《にが》しというか、その甘きこと薺《なずな》のごとし」とうたう。ここに登場する二種類の植物は、どちらもあまり使われない難しい漢字だが、古い注釈によれば「荼《ト》」(「茶《チヤ》」ではない)は「苦菜《にがな》」、「薺」は「甘菜《あまな》」のことだという。要するに、棄てられた私の心の悲しさに比べれば、皆がにがいというあの「荼」だって、まるで「薺」のように甘く感じられるよ、と妻はうたっているのである。  にがい野菜まで甘く感じられるほどの悲しみにくれている気の毒な妻はさておき、ここでにがいものの代表とされている「荼」とは、いったい何だろう。いろいろな文献によると、どうやらそれは日本で「ニガナ」と呼ぶ植物のことらしい。「ニガナ」はキク科の多年草で高さ約三〇センチ、原野や道ばたに自生し、茎や葉から出る白い液ににがみがある。  昔はこのような野草でさえ食用にされた。そしてその植物を食べた時に感じる味覚を、その植物の名前で表した。「苦」はもともと植物の名前であり、だからこそ字に≪※[#「くさかんむり」、unicode8279]≫カンムリがついている。そしてその味から、やがて「にがい」という意味を表すようになった。この字を「くるしい」という意味に使うのは、そこからさらに意味が拡大した結果である。 ◎ニガウリとライチー[#「◎ニガウリとライチー」はゴシック体]  私は残念ながらまだニガナを食べたことがない。しかしにがみのある野菜の代表であるニガウリなら大好きだ。ニガウリは正しい名称を「蔓茘枝《つるれいし》」といい、単に「茘枝《れいし》」と呼ばれることもある。しかし中国で「茘枝」と書けばニガウリではなく、かの楊貴妃《ようきひ》が好み、はるばると南方から早馬で取り寄せて食べたという果物「ライチー」を指す。同じ漢字を使いながら、中国では甘い果物、日本ではにがい野菜を意味するとは、なかなか面白い名前である。  夏になったら、ニガウリとライチーを同じ食卓に載せて、両者を食べ比べる実験をしてみよう。ライチーの方がニガウリより甘いと感じたらそれでよい。しかしもしもニガウリの方がライチーより甘いと感じれば、夫婦仲はかなりの危機を迎えているはずだ。孔子はもしかしたらそのことを教えようとして、この詩を『詩経』に入れたのかもしれない。 [#挿絵(img¥p077.jpg)] 31 [#特大見出し] 口《くち》 [#地付き]言い食らう口   本書でしばしば引用する中国最古の文字学書『説文解字《せつもんかいじ》』が、「口」という字を説明して、「人の言い食らう所以《ゆえん》なり」と述べる。人体の器官として存在する「口」には、食物を摂取することと、音声や言語を発するという、二つの重要な機能がある。『説文解字』はそれを「言い食らう」という簡潔な表現で、過不足なく見事に説明している。  では飲食と言語の、どちらの機能の方が重要だろうか。人は数日間にわたって誰とも口をきかないという生活を送ったとしても、命にはとりたてて別状がない。しかし数日間飲食を絶つとしだいに衰弱し、やがては死んでしまう。だから人間にとってもっとも重要な口の機能は、飲み食いであって、言語機能は二の次である。かつて世俗を避け、仙人になることを究極の目標とした人々が愛読したという『老子《ろうし》』にも、ちゃんと「五味《ごみ》は人の口をして爽《さわ》やかならしむ」という文章がある。仙人だって飯を食ったはずだ。いやよしんばかすみを食っていたとしても、それはやはり口から食べるしかなかったのだ。  人間である限りは必ずものを食べる。そして一人の人間には口が一個しかない。だから口の数と人間の数は絶対に同じになる。そこから「人口」という言葉ができた。閉じられた組織や集団に所属する人間を数える「人口」の用例はかなり古くから見られ、『孟子《もうし》』(梁恵王《りようのけいおう》篇上)に「八口の家も、以て飢えること無かるべし」と見えている。  しかし文献の中で「口」という字が使われるのは、やはり言語に関しての方が多いようだ。友人を弁護したために皇帝の逆鱗《げきりん》に触れ、ために宮刑《きゆうけい》(男性生殖器を切り落とす刑罰)という屈辱的な刑に処せられた司馬遷《しばせん》(前一四五〜前八六頃)は、自分の不幸を「僕は口語を以て、此の禍《わざわい》に遭遇《そうぐう》す」と書いた。また孔子は弟子のひとり宰予《さいよ》について「口才有りて著名なり」と述べた。「口才」とは、弁舌たくみな才能をいう。 [#挿絵(img¥31.jpg、横198×縦270、上寄せ)] ◎恩賜のリップクリーム[#「◎恩賜のリップクリーム」はゴシック体]  飲食にせよ言語にせよ、「口」の活動にはくちびるが大きな働きをする。だから「口」で「くちびる」を指すこともあった。厳寒期にくちびるのひび割れを防ぐために塗る薬を「口脂」という。唐代には臘日《ろうじつ》(旧暦十二月八日)に皇帝から群臣に、それを下賜《かし》する習慣があった。杜甫《とほ》(七一二〜七七〇)の「臘日」という詩に「口脂と面薬は恩沢《おんたく》を承《う》ける」とある。さしずめ「恩賜《おんし》のリップクリーム」とでもいうところか。中国は八世紀にはすでにリップクリームを知っていた。とても進んでいたのである。 [#改ページ] 32 [#特大見出し] 首《くび》 [#地付き]首と友情   動物園にいる「キリン」を、漢字で「麒麟」と書くのは実は正しくない。「麒麟」は「鳳凰《ほうおう》」とともに古代中国の想像上の動物であり、聖王によって地上が最高に平和な状態に統治されている時に、天がそれをめでて地上に遣わされる動物である。難しくいえば、「瑞獣《ずいじゆう》」である。そんなめでたい動物が、ちょっと大きな都市なら一つくらいは作られている動物園や遊園地なんかに、ゴロゴロいるはずがない。  漢字で「麒麟」と書かれる方の動物は、想像上の産物だけにまことに不思議な形をしている。文献によれば、それは身体全体が鹿に似ているものの、尻尾だけは牛に似ており、頭にはツノが一つあって……と、私がここでくどくどと下手に文章で説明するよりも、その名前を冠した大手ビール会社が発売しているビールの、ラベルや缶についている絵を見ていただく方がはるかに早いし、よくのみこめるだろう。  いっぽう動物園にいる、くびが長く暗褐色の斑点のある黄色い動物は「麒麟」ではない。英語で |giraffe《ジラフ》 と呼ばれ、日本で「キリン」と呼ぶ動物を、中国では「長頸鹿」と書く。要するに「長い頸をもつ鹿」という意味である。  ここに使われる「頸」は「首」という意味の漢字であるが、「頸」と「首」は微妙に示す範囲がちがう。 ◎首は頭全体を指す[#「◎首は頭全体を指す」はゴシック体]  厳密にいえば、「首」は肩から頭頂までの総称として使われる字であり、日本語に置き換えれば「くび」よりもむしろ「あたま」にあたる。「白髪」のことを「白首」ともいうし、戦争で討ち取った敵の頭部を「首級」という。また頭を前後に動かして同意を与えることを「首肯」という。これらのことばで「首」が指しているのは、いずれも頭全体である。またそこから「首」は、「最初・始め」の意味や、トップの地位にいる者を指して使われるようにもなった。  それに対し、あごから肩の間にある「くび」を、漢字では前部を「頸」、後部を「項」(うなじ)という。かつて日本を激震させた「ロッキード事件」の主役となった政界と財界のボスは、互いに相手を「刎頸《ふんけい》の友」と認めあった。「刎頸」とは頸を刎《は》ねること。相手のためならばたとえ自分の頸を刎ねられても悔《く》いないほど深い友情で結ばれた仲を「刎頸の交《まじわり》」という。  さて「頸」とはクビの前の部分、だいたいのどぼとけのあるあたりを指す。それを刎ねるというのだから、中国の首切りは、日本の切腹での介錯《かいしやく》のようにうなじから刀を当てるのではなく、刀を前から当てて切ったのだろう。前から切ると、殺される者にも刀が見えるから、それだけ恐怖心が増すはずだ。その怖さを克服しないと、刎頸の友にはなれないのだろう。そういえばかつて「刎頸の友」と認めあった政財界の二人のボスは、これまで恐怖心など一度も感じたことがないようなふてぶてしい面構《つらがま》えをしていたものだった。 [#改ページ] 33 [#特大見出し] 紅《くれない》 [#地付き]紅は中国の赤   日本では「赤」と呼ぶ色彩を、現代中国語では「紅」で表現する。リンゴの赤さも、真っ赤なセーターも、中国語でいえばすべて「紅」である。  赤はまた共産主義のシンボルカラーでもあり、日本共産党が「赤旗」という機関紙を発行するのとおなじように、中国共産党は「紅旗」という機関誌を刊行している。 「紅旗」は「人民日報」とともに中国共産党にとってのもっとも重要な定期刊行物である。しかし非常におかたい内容のものだから、一般の中国人はこの刊行物とほとんど縁がない。一般の中国人が「紅旗」と聞いて、真っ先に思い浮かべるのはむしろ車の名前である。  中国には「紅旗」という名の車がある。中国のロールスロイスとでもいおうか、黒塗りのゆったりした最高級の車である。これに乗れるのは国賓《こくひん》や超高級幹部に限られる。つまりVIP専用車であった。  近頃は中国でも車の数が激増し、北京《ペキン》や上海《シヤンハイ》などの大都会では、朝夕の交通渋滞が日本の大都市とかわらないほどに激しくなった。だが一昔前まで、少なくとも一九八〇年代前半くらいまでは車の数がそれほど多くなく、交通渋滞などはほとんどなかった。  その頃の中国を訪れた日本人がまず驚いたのはすさまじい数の自転車であり、それが車道を我が物顔で自由に走り回る。自転車は信号などまず守らないから、青信号で交差点をわたる時でも、あちらこちらから相当なスピードで走ってくる自転車を避けるのには、かなり神経を使ったものだ。それに対して車は、膨大な量の自転車の波に埋もれながら、道路の中央をおずおずと走っている、というような風情《ふぜい》だった。  そんな中で、紅旗だけは別格だった。 ◎紅旗よりベンツ[#「◎紅旗よりベンツ」はゴシック体]  かつての中国では、信号がほとんど手動で切り替えられていた。大きな交差点にはパンダのようなツートンカラーの制服を着た警官が立っており、彼らは遠くから紅旗がやってくるのを見ると、すぐに手動で信号を青に切り替える。紅旗に乗っているのは重要人物に決まっているから、そんな方に信号待ちなどさせるわけにはいかない、との配慮がはたらくためであり、だから紅旗はいつでもどこでも、ノン・ストップで目的地に到着した。  そんな車の王様だった紅旗を、近頃はほとんど見かけない。もちろん紅旗は今も中国産の最高級自動車として生産されているのだろう。だが近頃のVIPたちはベンツなど外国製の高級車に乗りたがるようで、そのためか紅旗を見かけることが本当に少なくなった。これもソ連や東ドイツの崩壊とともに、「赤旗」の人気が凋落《ちようらく》したことの影響なのだろうか。 [#改ページ] 34 [#特大見出し] 芸《げい》 [#地付き]虫を防ぐ芸草   ずいぶん前のことだが、中国からやってきたお客様を案内して博物館を見学している時、掲示板に書かれていた「工芸品」ということばの意味を尋ねられた。その中国人にはこのことばがわからなかったのである。また「芸術」という表記も、かなり日本語に通じている人以外には、中国人には少しやっかいなようだ。  これは「芸《ウン》」という字が、もともとは植物の一種を指す漢字であり、中国ではこれまで「藝《ゲイ》」の意味として使われることがなかったことによる。中国語では「藝」と「芸」は別々の漢字であって、決して混同されることがない。  日本では「藝」の上と下を取り出して組み合わせた形の「芸」を、「藝」の略字として早い時代から使っていた。そして本来の「芸《ウン》」が日本ではほとんど使われることのない字だったために、「藝」と「芸」がバッティングをおこさなかった。しかし早い時代に日本でも、「芸」と「藝」を区別して使っていたことがあった。  そのことを示す有名な例が、日本最古の図書館の名前である。奈良時代(七一〇〜七八四)末期に石上宅嗣《いそのかみのやかつぐ》が自己の旧宅を寺とし、その一隅に「芸亭」と名づけた書庫を設置して、そこに漢籍を収めて自由に閲覧《えつらん》させた。これが日本最古の図書館だが、この「芸亭」は「ゲイテイ」ではなく、「ウンテイ」と読まねばならない。 ◎「藝」と「芸」[#「◎「藝」と「芸」」はゴシック体] 「芸」(音読みは「ウン」)は、本来は香りのよい草の名前であった。  この草が発散する香りは虫よけ効果があって、古くは書物を保存しておくところには防虫剤としてこの草をおく習慣があった。日本最古の図書館の名前に「芸」が使われているのも無論そのためだし、中国で宮中の蔵書機関を「芸閣《うんかく》」といい、虫を防ぐために芸草をいれた帙《ちつ》(書物を保護するカバー)を「芸帙《うんちつ》」というのも、いずれもそのことを示す例である。  もう一方の「藝」は、本来は樹木や草を植えることをいった。  そこから意味が派生して、土に何かを植えるように人間の精神に何かを芽生えさせるものを「藝」といった。心の中に豊かに実り、やがて大きな収穫を得させてくれるものが「藝」であり、その代表はなんといっても学問である。  儒学の文献にはしばしば「六藝《りくげい》」ということばが見える。それは知識人が身につけておくべき六種の教養のことで、中身は礼儀作法・音楽・弓術・馬術・文字・算数であった。 「藝」が中国で「藝術」とか「工藝」というような意味で使われるようになったのは、英語の art の訳語として使われて以降のことであり、もともとはきわめてお堅い、まじめな内容の教養・学問をいう字であった。中国で身を助けるほどの「藝」を身につけるのは、至難のわざだったにちがいない。 [#改ページ] 35 [#特大見出し] 麑《げい》 [#地付き]麑は鹿児島   全国各地に姉妹校をもつ大きな学校ならどうか知らないが、私が勤めているような通常の大学では、教師に定期的な転勤がない。また学部や学科の長など、大学の運営に相当深く関与する地位でもない限り、学校の命令によって派遣される出張などめったにない。だから私たちが職務上の必要によって本務校を離れ、他の都市まで出張するのは、ほとんどの場合が学会参加のためである。北海道や九州の都市で開催される学会の出席率が、東京や京都などで開催されるそれに比べて格段によいという事実の背景には、主として右に述べたような理由が潜んでいる。  そんなわけで私もある時、鹿児島へ出張する機会を得た。到着してとりあえず処理しなければならない仕事を手早くすませると、さっそく市内見物にとりかかった。  市内中央部に「ザビエル公園」があった。これはフランシスコ・ザビエル渡日四百周年を記念して作られたもので、公園の中には戦災で焼失した旧聖堂の一部を使って、ザビエル記念碑も作られていた。  私はキリスト教の信者ではないが、万里の波濤《はとう》をこえてはるばる東洋の果てにまで布教にきた宣教師たちを心から尊敬する。ましてや日本に初めてキリスト教を伝えたザビエルである。そう思いながら、私にしては敬虔《けいけん》な気持ちで記念碑に歩みよって驚いた。その記念碑には「フランシスコ・ザビエル聖師滞麑記念」と書かれていた。なんと不思議な字を使うものだな、と奇異な感じにとらわれたのである。 ◎本来の意味は唐獅子[#「◎本来の意味は唐獅子」はゴシック体] 「麑」は中国最古の百科事典といえる『爾雅《じが》』に見え、音読みは「ゲイ」である。字は≪鹿≫を部首としているように、本来は動物の名前で、唐獅子を指すといわれる。だが鹿児島ではこの文字をその意味ではなく、「鹿児島」という地名を表す漢字として使ってきた。  鹿児島のことを「麑」で表した例は非常に古く、『続日本紀《しよくにほんぎ》』の天平宝字《てんぴようほうじ》八年(七六四)十二月の条に、  大隅薩摩両国ノ堺ニ当リテ、烟雲晦冥《えんうんかいめい》シテ奔電去来ス。七日ノ後スナハチ天晴レ、麑嶋《かこしま》信尓村ノ海ニ於イテ、沙石自ラ聚《あつま》リテ、化シテ三嶋ト成ル。 と見えている。  鹿児島の古名であるカコシマが文献に見えるのはこの『続日本紀』が最初だが、その当時すでにその地は「麑」と書かれていた。そこでは「麑」の意味はまったく無視され、単に字形を構成する≪鹿≫と≪兒≫だけを、表音的要素として採用しただけだった。だがそれでも鹿児島では「麑」を「カコ」と読まず、本来の音読みに従って正しく「ゲイ」と読む。  こんな面白い現象に突然出くわしたりするものだから、学会出張での市内見物はなかなかやめられそうにない。 [#改ページ] 36 [#特大見出し] 個《こ》 [#地付き]中国語で個数を数える   小学校の国語の授業で、先生が「紙は一枚二枚と数え、猫は一匹二匹と数えますね。ではお豆腐はなんと数えますか?」と尋ねたら、元気のいい子供が手を挙げて、「はい、ワンパック、ツーパックです」と答えたそうだ。たしかにスーパーの棚に並んでいる豆腐は「パック」単位の数え方が合理的であるように思われるし、食パンだって「一|斤《きん》二斤」という数え方を近頃とんと耳にしなくなった。  中国語で物の個数を数える時には、名詞の前に「量詞」と呼ばれる語を置く。中国語ではこの量詞が非常に発達しており、使い方も日本語より格段に複雑である。  中国語の量詞は数える物の形状によって決まることが多く、たとえば鉛筆や笛など細くて長いものは、その形からの連想で「枝」という字が使われる。また机と紙はどちらも「張」という字で数えられる。机と紙のどこに共通点があるかといえば、それはどちらにも比較的小さな平面がある、という点なのである。しかし運動場のような大きな平面は、「張」ではなくて「片」という別の量詞が使われる。中国語を学ぶ人は、最初のうちは量詞に大いに悩まされるものだ。  その量詞のなかで、もっとも頻繁に使われ、かつもっとも応用範囲の広いのが「個」である。「個」は「紙」に対する「張」、あるいは「筆」に対する「枝」のように緊密に結びついた、特定の量詞をもたないすべての名詞を数えるのに使われる。それは具体的な実体のあるものに限らず、たとえば「任務」や「道理」(すじみち)というような抽象的な概念にも応用される。また人間も「一個人」とか「三個学生」というように、通常は「個」で数えられる。 ◎「ケ」の由来[#「◎「ケ」の由来」はゴシック体]  この「個」を、現在の中国で使われる簡体字(漢字の字体を簡略にした文字)では「个」と書く。まるで矢印のような形だが、これは「個」の異体字である「箇」についている≪竹≫の半分だけをくずした形である。つまり「個」(=「箇」)の省略字形なのだが、しかし「个」は近代における文字改革で作られたような新しい字ではなく、戦国時代に作られた文献にすでに用例が見えるほどの古い漢字である。  ところで活字体で「个」を書くと三画になるが、実際に中国人が手書きで書く時には一筆書きのように続けて書くから、結果的にカタカナの「ケ」と非常によく似た形となる。これが日本語で、たとえば「たこやき四ヶ百円」というように、「ケ」を「個数」の意味で使う由来である。もともとは中国から輸入された荷物の木箱を数える時などに、「个」という字が「個」の意味で使われていたのだろう。それを日本人が、意味は「個」と正しく理解しながらも、カタカナの「ケ」と誤解したのがその始まりだろう。しかしカタカナと漢字の区別もつかなかったのだから、あまり賢い人の行動ではなかったようだ。 [#改ページ] 37 [#特大見出し] 鯉《こい》 [#地付き]鯉の手紙   フランス人は公園にむれているハトを見て、「うまそうだな」とつぶやくという話を、何かの本で読んだ覚えがある。さすがはグルメのフランス人らしい話だとその時は感心したものの、しかし都会の公園や駅前などにむれているハトはうす汚れていて、どうみても美味という感じがしない。  本場のフランスだって、公園などにいるハトはどうせそんなにきれいではないだろう。だからその辺にいるハトを捕まえて食べることなどありえないだろう。どうもこの話は嘘くさい。どうせでたらめのグルメ話をでっちあげるのなら、よく晴れた青空にひるがえる鯉のぼりを見た中国人が、「糖酢鯉魚《タンツーリーユイ》」(コイのまる揚げ甘酢あんかけ)を思い出してうっとりとよだれを流すとでもした方が、スケールが大きくてまだしも愉快ではないだろうか。  中国の料理がその味と種類、そしてそこに注がれる情熱の点で世界最高の水準にあることは、ここに改めていうまでもないだろう。中国の文化や社会のあり方を批判する人は世間に少なくないが、しかし中国の料理についての悪口はめったに聞かれない。  しかし日本人なら、海の幸に関してだけは、中華料理といえどもやはり物足りないものがあるだろう。仕事でしばらく中国に滞在すると、やはり海の魚が食べたくなってくる。浙江《せつこう》省や福建《ふつけん》省などの沿岸地帯や、あるいは香港《ホンコン》・台湾のようになんでもあるところはいいのだが、北京《ペキン》や西安《せいあん》などの内陸部では、食卓に出るのは鯉や草魚《そうぎよ》などの淡水魚ばかりで、バラエティにとんだ魚料理に慣れている日本人の味覚にはかなり大味に感じられる。 ◎鯉の使い道[#「◎鯉の使い道」はゴシック体]  海のない地域の人にとって、もっとも身近な魚は鯉だった。またしても『詩経』だが、この中国最古の詩集の中に「魚を食うにしても、いつも黄河《こうが》の鯉ばかりとは限るまいに」と歌う一節がある。たまにはちがう魚を食ったらどうだといわれるほど、黄河流域では鯉が常食されてきたようだ。  そして鯉は食べる以外にも、手紙を収納する道具に使われたという。意外な使い方だが、漢代に作られた歌に「客 遠方より来たり、我に二つの鯉魚をもたらす。児を呼びて鯉魚を烹《に》さしむるに、中に尺素《せきそ》の書有り」とある。 「尺素」とは幅一尺の白絹で、紙の発明前には手紙は絹に書かれることが多かった。  この歌では、万里の長城の造営に駆り出された夫が、故郷の妻を案じて鯉を届けさせ、その中に手紙を挿入しておいた、という状況設定がなされている。そしてこれを典故として、後世には手紙のことを「鯉魚《りぎよ》」とも呼ぶようになったのだが、もし本当に遠くから鯉が届いたのなら、魚はとっくに腐っているし、手紙だってひどく臭くて、とうてい読めたものではなかったはずである。こんな手紙が届いたら、いかに恋人からのものであっても、私ならきっと激怒するにちがいない。 [#改ページ] 38 [#特大見出し] 郊《こう》 [#地付き]郊は無人の原野  「郊外の一戸建て」が、サラリーマンにとっての究極の目標であるという。たしかに喧騒《けんそう》と雑踏にあけくれる都心部からみれば、「郊外」にはまだしも自然と豊かな緑が残っており、都心部に直結する「郊外電車」を利用すれば、さまざまな物があふれる都心に出るのもそれほど面倒なことではない。毎日の通勤に時間がかかるという難点はあるものの、都市の「近郊」に暮らしたいという希望を多くの人がもつのも当然であろう。  ところでこの「郊外」ということばにある「郊」は、もともとは古代中国の地域の呼び名に由来するものであった。  古代中国の人々は、周囲を壁で囲まれた区画の内側に暮らしていた。この壁は最初は土を積み上げてつき固めただけの簡単なものだったが、時代が進むにつれて、やがて日乾《ひぼ》しレンガなどで作った堅固なものとなった。これが過去の中国の都市を取り囲んでいた城壁であり、北京《ペキン》でも戦争前までは残っていたそうだ。西安《せいあん》や南京《ナンキン》には、今も部分的に大きな城壁が残っている。  城壁に囲まれた集落を古くは「邑《ゆう》」と呼んだ。人々はすべてこの邑の中に暮らしており、農民も城壁をくり貫《ぬ》いて作られた門を通って、邑の外側にある田畑へ農作業に出かけたのだが、門は日暮れとともに閉じられたから、日没までには必ず邑内に戻らなければならなかった。だから夜になると、邑の外は無人地帯となった。 ◎とんでもない町はずれ[#「◎とんでもない町はずれ」はゴシック体]  この邑から五十里(約一九六キロ)離れたところを「近郊」、百里離れたところを「遠郊」と呼んだ。  つまり「郊」とはとんでもない町はずれの地域をいう語であり、そこは実際には暮らす人々などまったくいない、無人の原野だったのだ。  郊では天と地の祭りが定期的におこなわれた。規定によれば、天子は冬至《とうじ》には南郊で天を、夏至《げし》には北郊で地を祭ったという。  またVIPというべき人物が遠くから訪れてきた時には、郊まで迎えに出るのが正式の作法であった。  戦国時代、斉《せい》の高名な思想家である|※[#「馬+芻」、unicode9a36]衍《すうえん》(前三〇五〜前二四〇)が梁《りよう》を訪れた時には恵王が「郊」まで迎えに出ているし、また同じ時代の思想家である蘇秦《そしん》(?〜前三一七)が洛陽《らくよう》に帰ってきた時には、立身出世を遂げた息子を迎えるために、両親が「郊」の外三十里のところに宴席を設けたという話がある。  郊とは相当に遠い町外れであった。「郊外」というのはそのさらに外側なのである。いかに自然があふれているといっても、このような「郊外」に暮らしたいと思う人はめったにいないだろう。 [#改ページ] 39 [#特大見出し] 餃《こう》 [#地付き]新婚夫婦と餃子   中華料理が嫌いでなければ、世界中どこにいっても食べることでは苦労しない、といわれるほどに、中国料理店は世界中にある。しかしやはり現地の人の味覚にあうように、どこの国でも少しずつ味を改めているようだ。私の数少ない経験でも、イタリアの中華料理はどことなくイタリア風だったし、フランスではチーズの入った中華料理を食べた。日本の中華料理だって、もちろん大部分が日本風にアレンジされている。  日本人がよく知っている中華料理の一つにギョーザがあるが、実際のギョーザは、中国と日本で大きな差がある。  日本の中華料理店ならどこでもだいたい「菜単」(メニュー)に「餃子」の文字があるだろうが、中国に行ってたとえば上海《シヤンハイ》や南京《ナンキン》で、昼食はギョーザにしようと思うとかなり苦労する。南方の食堂にはふつうギョーザはない。どうしても食べたければ、「北方水餃」という看板の出ている店をさがさなければならない。  さらに首尾よくギョーザ屋を見つけたとしても、そこで出てくるのはわれわれがよく知っている焼き餃子ではない。あれは中国では「鍋貼《グオテイエ》」といい、「餃子」とはまた別の料理である。中国で単に「餃子」といえば、それはかなり弾力性のある厚い皮で包んだギョーザを鍋でゆでた「水餃子」のことである。 ◎餃子はめでたい食品[#「◎餃子はめでたい食品」はゴシック体]  餃子は主として黄河《こうが》より北の地域で、主食と副食を兼ねた手軽な食べ物として好まれる。そして特に「春節《しゆんせつ》」、すなわち旧正月には欠かせない食品である。新年を迎えるために、現在でも北京の人は大《おお》晦日《みそか》に山のように餃子を包む。 「餃」という漢字が文献に現れるのは明《みん》(一三六八〜一六四四)の時代からだが、食品としてはすでに五〜六世紀ぐらいからあったようだ。古くは動物の角《つの》のような形に包まれたらしく、そこから「粉角」とか「角子」とか呼ばれた。それが後に、「角《チイアオ》」と同音の≪交《チイアオ》≫に≪食≫ヘンをつけて、「餃」という字を作った。  餃子はめでたい食品であり、結婚してから初めて里帰りしてきた新婦の実家で夫婦をもてなすのにもギョーザが使われた。ただしその時にはわざと生煮えにしておく。そして新婚夫婦にむかって「餃子はどうだい?」と尋ねると、夫婦は「生です」と答える。  これには実は裏があって、「餃子《チイアオズ》」は「交子《チイアオズ》」、つまり子供を授かるという表現と発音が近い。そして夫婦が答える「生《シヨン》」という字には、餃子がナマであるという意味とは別に、もちろん子供を「生む」という意味がある。  つまり生煮えのギョーザにひっかけて、子供を生みますよ、と夫婦は答えさせられるわけである。文字の国ならではのウィットであるが、新婚早々の里帰りで生煮え餃子を食わされる夫婦は実に気の毒である。 [#改ページ] 40 [#特大見出し] 氷《こおり》 [#地付き]氷と権力者のトリック   夏に外国で暮らしていると、喫茶店でアイスコーヒーやアイスティーがなかなか飲めない。日本ではどこの喫茶店にでもあるこれらの飲み物は、日本人が発明したものなのか、外国ではめったにお目にかかれない。  以前に二週間ほど、イタリアのナポリで暮らす機会があった。三月半ばではあったが、南イタリアは晴天が続くとかなり暑くなる。なにか冷たいものを飲もうと思ってバール(喫茶店)に入り、カウンターで、冷たいコーヒーはないかと英語で聞いたところ、あるという。喜んでそれを注文すると、出てきたのはコーヒーをシャーベット状に凍らせて小さなワイングラスに入れたものであった。イタリアのアイスコーヒーは飲み物ではなく、スプーンを使う食べ物だった。  アイスコーヒーもなかなか見つからないが、かき氷を海外で探すのはさらに難しい。かき氷を作るためには氷がいる。当たり前のことだが、しかしその氷をミネラルウォーターのように高い水で作っていては、とうてい商売にならない。だからかき氷屋は生水をそのまま飲める国でしか営業できないのだが、しかし日本のように蛇口に口をつけて生水をそのまま飲める国は世界でもそれほど多くない。 ◎皇帝の絶大なる能力[#「◎皇帝の絶大なる能力」はゴシック体]  今ほどアイスクリームがたくさん売られず、また質も味ももっと粗悪だった頃、真夏に子供がもっとも喜んで食べる冷たいものはかき氷だった(私の育った大阪では「氷まんじゅう」と呼んでいた)。イチゴやメロンなどという名前のついた、かなり毒々しい色のシロップをかけたものが、子供には実に魅力的だった。しかしそのかき氷とて、真夏でも簡単に氷が作られるようになった近代の産物であって、もっと昔では、夏に氷を食べるなどまず考えられなかった。  しかしずっとずっと昔の中国では、真夏に皇帝が氷を群臣に分け与える儀式があったという。 「氷」という字は、水が凍って氷ができるさまをかたどっており、≪水≫の左肩にある点は結氷した形を示す。  冬の間に山中の小川のほとりなどで自然にできた氷を切り出して、山奥の洞窟《どうくつ》などに作った氷室《ひむろ》にたくさん貯蔵しておけば、そのまま夏まで氷を保存できる。皇帝は夏にそれを取り寄せて臣下に配っただけだが、からくりを知らない人間は大いに驚いたことだろう。  皇帝は夏に氷を配るという行為を通じて、自分が空間のみならず時間までも支配できるということを見せつけた。酷暑《こくしよ》の時節に氷が配られた臣下は、皇帝の絶大なる能力に心酔《しんすい》したはずである。権力者とは昔から、ごくささいなトリックによって、偉大な能力をもつと見せかけるものなのである。 [#改ページ] 41 [#特大見出し] 米《こめ》 [#地付き]米にて生きる者   夏もそろそろ終わろうとする頃、近所を散歩していると、お米屋さんの店頭に「新米入荷しました」という広告が出ていた。帰宅してさっそく家人に話すと、広告はもうずいぶん前から出ているとのことで、わが家のご飯もしばらく前から新米にかわっているとのことだった。いわれるまで気がつかなかった自分の味覚音痴が、なんとなく情けなくなった。  わが家の近くにはたくさんの水田があって、そこがちょうど小学生の通学路になっているものだから、田植えや稲刈りなど季節ごとの米作りの光景が子供の目に入る。これは都会の子供にはできない勉強なのだが、当の子供たちはそのありがたみをまったくわかっていないようだ。  イネが実る季節になると、農業にはまったく素人《しろうと》である私の目には毎年豊作に見えるのだが、実際には年ごとに出来の善し悪しがあるらしい。しかし仮に不作であっても、近くにイネがたわわに実っているのを見ると、自分のものでもないのに、なんとなく心が楽しくなってくる。 ◎本来は穀粒の総称[#「◎本来は穀粒の総称」はゴシック体] 「米」はいまの日本では「こめ」と読んで、イネの実を脱穀《だつこく》した粒を指すが、しかしもともとこの字はイネを意味するものではなく、穀物の実を脱穀した穀粒《こくりゆう》の総称として使われた。甲骨文字にも「米」という字はあるが、それは何かの穀物の粒が穂《ほ》に付いているようすを描いたものであって、その穀物はおそらくイネではない。イネが黄河流域で栽培されるようになるのは、甲骨文字の時代からだいぶ経ってからである。 [#挿絵(img¥41.jpg、横120×縦160、上寄せ)] 「米」という字を穀物の総称として使う例は今の中国語にも残っていて、中国では米の飯を「米飯」といいはするものの、しかし穀物としての米は「大米」といい、米より粒が小さいアワを「小米」という。  アメリカ大陸を原産地とするトウモロコシが、まず新大陸からヨーロッパに伝わり、それがポルトガル人によって中国にもたらされたのは、ずっと後の明《みん》代・正徳《せいとく》十一年(一五一六)のことだった。  この新しく渡来した穀物を、中国では「玉米」と呼んだ。この名前にも、「米」がもともと粒を食べる穀物の総称として使われる字であったことが反映されている。  ちなみにトウモロコシの一種を火であぶった食品「ポップコーン」を、中国語では「爆米花」という。ポップコーンも中国語では「米」の一種なのである。  しかし日本でははるか昔から、この字をイネの実だけを表す専用の文字として使いつづけてきた。そこに日本人とイネとの密接なかかわりを見ることができる。日本の食の中心にあるのは、昔も今もやはりお米なのである。かつて西洋の聖人が「人はパンのみにて生きるものにあらず」と喝破《かつぱ》したそうだ。そうとも、日本人ならやっぱりお米を食べなければ! [#改ページ] 42 [#特大見出し] 桜《さくら》 [#地付き]桜の女は二階にいない   近頃の町の書店では、店内の一番いいところに文庫本が並べられている。「洪水」という表現がぴったりなほどに、各社から大量の文庫本が出るようになってもうずいぶんになる。新進気鋭の作家による書き下ろしの新作が、いきなり文庫で刊行されることだって、今では少しも珍しくなくなったし、老舗《しにせ》以外に新しく文庫本の分野に参入してきた出版社も多い。書店の棚の前で、「最近ではとうとう岩波まで文庫本を出すようになったのか」とつぶやいた大学生がいた、との話を聞いたこともある。  昭和二十六年生まれの私がまだ中高校生だった頃、文庫本とは古今東西の名著を廉価《れんか》に入手するための形式だった。新刊本は高いが、文庫なら学生の小遣いでもなんとか買える。そしてなによりも重要なこととして、文庫には必読の名著が揃っていたし、その多くは文庫でしか買えないというものだった。本を読むのが好きな学生は、盛んに文庫を買っては愛読したものだった。  その頃の文庫本には、戦前や戦後まもなく出た版の紙型《しけい》をそのまま使っているものがたくさんあって、そのような本ではまだ旧字体の漢字が使われていた。だから我々の世代にはこれで旧字体を覚えたという人も多いはずで、かく申す私だって、ノートの表紙に「國語」とか「數學」などと書いて粋《いき》がっていたものである。  こうして旧字体(「舊字體」と書くべきか)に興味をもち、私はいろんな漢字の旧字体を調べだしたのだが、中にはずいぶんと複雑で、覚えにくいものもある。ところがこれには便利な覚え方があるということを、母親から聞いた。  たとえば「寿」は「サムライの笛は一インチ」と覚えよ、と母は教えてくれた。≪士≫の《フ・エ》は≪一≫≪吋《インチ》≫と書くと、結果として「壽」という字になるという次第である。 ◎イメージがふくらむ旧字体[#「◎イメージがふくらむ旧字体」はゴシック体]  同じデンで、「桜」は「二階の女が気にかかる」と覚えた。「桜」の旧字体「櫻」は、二つの≪貝≫と≪女≫が≪木≫ヘンの横にあるからである。この覚え方を知ってから、「櫻」という漢字を見れば、なんとなくなまめかしく華やかなイメージを感じるようになったものだ。「桜」ではそうはいかない。  戦後に国語と国字の改革がおこなわれ、それまでは俗字とか略字と呼ばれていた字形のいくつかが、正規の字形となった。簡単に書けるのはいいことなのだろうが、しかし人々がそれまで漢字に対してもっていた、自由で豊かなイメージのふくらみが、簡略化によってしぼんでしまったことはまことに残念なことである。 「櫻」は意味的範囲を表す≪木≫と、音を表す≪嬰≫を組み合わせた漢字である。その≪嬰≫、つまりツクリの部分を草書体でくずして書いた形を楷書《かいしよ》化したのが「桜」という字形である。「桜」の女は二階にはいない。「ツメ」でも磨いているのだろうか。 [#改ページ] 43 [#特大見出し] 酒《さけ》 [#地付き]酒と王様   正月は新年会で飲めるし、春は花見で飲める。だが二月には適当なネタがない。ならば何もネタがないことをネタにして、とわけのわからない口実を設けて酒を飲もうとするのが酒飲みというものである。  長期にわたるアルコール摂取が成人病の原因となる、と医者からしばしば警告される。だがそれでも、大多数の人々にとっての飲酒は爽快な気分をもたらし、いやなことを忘れさせてくれる楽しい行為である。そして酒好きの人は、適度の飲酒は食欲を増進させるし、健康にとっても決して有害ではないと主張する。  その時に「左きき」の連中がしばしば論拠とするのが、「酒は百薬《ひやくやく》の長《ちよう》」ということばである。これはもともと中国の前漢時代の経済関係の記録に見える表現である。  前漢末期のある皇后の父親であった王莽《おうもう》(前四五〜後二三)は、その地位と陰険な手段をたくみに使って強大な権力を自分に集中し、ついには国を横取りして、「新」(八〜二三)という王朝を建てた。 ◎酒は塩より大事[#「◎酒は塩より大事」はゴシック体]  この「新」は、結果的にはわずか二十年ももたない短命な王朝となったのだけれど、さて当時の社会では、塩と鉄、それに酒が国による統制販売品とされていた。  塩・鉄・酒はいずれも人間が絶対に欠かすことができないものであり、それを十分に供給するために、国家が専売していたのだが、統制の背後では官吏と大商人が結託し、そのために値段がひどくつりあげられていた。  王莽はその状況を改善し、塩や酒などが社会に円滑に流通するようにとの命令を出した。  その王莽の命令の出だしの部分に、  夫《そ》れ塩は食肴《しよくこう》の将なり。酒は百薬の長にして、嘉会《かかい》の好《よ》ろしきものなり。鉄は田農の本《もと》なり。 という文章がある。  この文章こそが、酒飲みたちが拳々服膺《けんけんふくよう》してやまない、飲酒弁護論の出典である。  しかし酒よりももっと重要であるはずの塩と鉄については、それぞれ一句しか述べられていないのに、酒についてはごていねいに二句も費やされている。  おそらく王莽だって、酒を弁護するのにどことなくうしろめたいものを感じていたのだろう。  どうせうしろめたいものならば、ついでに「色気」の方も弁護しておいてくれればよかった。そうすれば人気があがって、短命王朝というような憂き目にもあわなかったかもしれない。 [#改ページ] 44 [#特大見出し] 寒《さむい》 [#地付き]寒さの効用   日本は四季の区別がかなりはっきりしている国である。地球温暖化とかエルニーニョとやらのおかげで、このごろは季節感もだいぶ様変わりしつつあり、今の日本には一年に夏と冬の「二季」しか存在しないという人も中にはいるが、しかしそれでも亜寒帯の地域や赤道直下の国などと比べると、季節の変化はまだまだきわめて明確である。  季節の変化は、テレビの天気予報にも如実に反映される。天気予報を見ていると、夏になれば太平洋高気圧が現れるし、冬になると「西高東低の気圧配置」とかの表現がよく聞かれる。「冬型の気圧配置」になると、北海道や東北、それに日本海岸の地域にはしばしばかわいい雪だるまのマークがつけられる。あれはなかなか芸のこまかい情報提示方法であると思う。  比較的温暖な関西に暮らすわが家では、たまに雪が降ると子供たちは大喜びしてはしゃぎまわる。寒い時にはこたつに入ってミカンなど食べ、のんびりとテレビを見るという、きわめて小市民的な幸せにひたるのが最高だ、と私は堅く信じている。だが連日のように雪に埋もれる北国の生活は、さぞかし大変なことだろうとご同情申し上げる。  各種の暖房器具が整った現代ならば、少々寒くてもなんとかなる。しかし昔はなかなか大変だったことだろう。そんな古代人の防寒の様子を示すのが、「寒」という漢字である。 ◎地球にやさしい防寒方法[#「◎地球にやさしい防寒方法」はゴシック体]  今から三千年ほど前に使われていた字形では、「寒」は≪宀≫の下に二つの≪艸≫と≪二≫がある形に書かれている。≪宀≫カンムリは家の屋根を表し、その下に≪艸≫(くさ)が二つあって、≪二≫はおそらく布団を敷いた形を表している。 [#挿絵(img¥44.jpg、横120×縦200、上寄せ)]  つまりこの字は、家の中に枯れ草やワラを積み上げ、そこに布団を敷くことを示していて、そこから「さむい」という意味を表すしくみになっている。古代中国人は枯れ草やワラを廃棄物とせず、ちゃんと上手に利用していたのである。近頃流行していることばでいえば、「地球にやさしい防寒方法」とでもなるだろうか。  中学生の頃、よく友人たちと山歩きに出かけていた。ある夏休みに湖のほとりへキャンプに行くことになって、必要な道具を買うために、大きなスポーツ用品店に行った。シュラフ(寝袋)を買おうといろいろと物色していると、なんと「二人用の寝袋」というものがあった。おりしも性的好奇心が非常に強い年頃だったから、テントの中でこれを使用している状況を妄想し、友人たちと大いにもりあがったものだった。カップルで冬山に行っても、二人でシュラフにくるまれば、防寒効果は絶大にちがいない。私もいちどでいいから、≪宀≫カンムリの下に≪男≫と≪女≫を並べて、「さむい」と読んでみたいものである。 [#改ページ] 45 [#特大見出し] 士《し》 [#地付き]士《さむらい》の条件   学生時代にテストの準備として、歴史的なできごとの年代を漢数字の語呂《ごろ》合わせで覚えた経験が、どなたにもきっとあることだろう。鎌倉幕府が成立した一一九二年を「≪いいくに≫作ろう」と覚え、ザビエルが種子島《たねがしま》に上陸した一五四九年を「≪以後よく≫見かける南蛮人」と覚えるといった式のアレである。  この数字の語呂合わせでは、一から九までの漢数字と|〇《ゼロ》に備わっている音読みや訓読みを思い切り駆使《くし》し、さらには「八」を中国語式に「パー」と読んだり、「〇」を英語のOと見立てて「オー」と読むなど、ちょっと反則ではないかと思えるようなことまでおこなわれる。子供が使っている受験参考書などを見ていると、よくもまぁこんなに器用に語呂合わせが作れるものだと感心する。  ただこの語呂合わせは、もともと漢字に数種類の読みがあるからこそできるわけで、英語などではなかなかこうはいかない。また本家の中国では漢字の読み方は一通りしかない(中国語には漢字の訓読みがない)から、これはまさに日本語だけに特有の、非常に便利な方法なのである。  数字の語呂合わせは、年号の他に電話番号などにも使われるし、また一ヵ月が三十日以下しかない「小の月」を「西向く士《さむらい》」と覚えることは、小学生でも知っている。ただこの「士」は、「十一」の読みを使った語呂合わせではなく、「士」を上下に分割すると≪十≫と≪一≫になることから使われた文字である。 「士」を≪十≫と≪一≫にわける考え方は、非常に早くから中国に存在する。孔子の説とされているが、「士」とは「一のことを聞いて十まで類推できる人である」という説明が、西暦一〇〇年頃に作られた『説文解字』に載っている。この話を本当に孔子が語ったという証拠はどこにもないが、しかし「士」とは立派な人格を備えた知識人ということだから、「一を聞いて十をさとる」人だという説明は、なかなか説得力がある。 ◎男のイチモツ[#「◎男のイチモツ」はゴシック体]  さらに「士」は、ただ単に頭脳|明晰《めいせき》であるだけでなく、男としての能力も立派でなければならない。それで性に大らかだった古代人は、男性のイチモツが凜々《りり》しくそそり立った形を描き、それを「立派な男」という意味を表す文字としたという説まである。これをいい出したのは中華人民共和国を代表するほど有名な文化人だった郭沫若《かくまつじやく》なのだが、その人の説では、「士」は男性の性器が勃起《ぼつき》した形の象形文字で、だから「牡《おす》」の右(今は≪土≫だが、古くは≪士≫だった)にもその形がある、という。  日本では一月一日の元日をはじめとして、桃の節句、端午《たんご》の節句、七夕、そして九月九日の「重陽《ちようよう》」と、奇数月で月と日の数がゾロ目になる日を節句とする。それならこの際、十一月十一日を「サムライの節句」とでも呼んだらどんなものだろう。もっとも町を歩く男たちがみんな、ズボンの中に雄々しくテントを張っていたりしたら、女性は物騒《ぶつそう》でしかたないことだろうが。 [#改ページ] 46 [#特大見出し] 塩《しお》 [#地付き]塩は辛いか?   大阪に生まれ、そのままずっと関西で育ってきた私は、塩の味も唐辛子《とうがらし》の味もどちらも「辛い」と表現する。これが関東の人にははなはだ不思議に感じられるらしい。東京の下町に生まれ育ったわが友人などは、このことを論拠にして、「大阪は天下の台所であるとか、食い倒れの本場だとか、ことあるごとに偉そうなことをいうが、塩と唐辛子の味の区別もできないではないか。もしかしたら関西人は、根っからの味オンチなのではないか」とまで厳しく評論する。  いうまでもなく、関東では塩や醤油の味を「塩辛い」(あるいは「しょっぱい」)といい、唐辛子やワサビの味を「辛い」と表現する。そしてその二つの形容詞が混用されることは決してありえない。  友人がいうように関西人が味オンチであるかどうかはさておき、塩と唐辛子では味がまったく別だから、それを同じ形容詞で表すのはたしかに妙なことだ、と関西人の私も思う。事実私だって、中国語を話す時にはその味を表す形容詞を使い分けているのだから。  中国語では塩の辛さを「咸《シエン》」、唐辛子の辛さを「辣《ラー》」という。異なった形容詞を使うのは、関東と同じである。 ◎難しすぎる旧字[#「◎難しすぎる旧字」はゴシック体]  このうち「辣」の方は、「辛辣《しんらつ》」ということばや、ギョーザのたれなどに使う「辣油《ラーユ》」でおなじみの漢字だが、塩味を表す「咸」は、日本人にはあまりなじみのない漢字である。あるいは少し漢字に詳しい方なら、「咸」は「みんな」という意味で使われる字であって、「塩辛い」という意味などこの字にはない、と思われることだろう。  これは実は現代中国の文字改革によって簡略化された結果であって、塩の辛さはもともと「鹹」と書かれていた。しかし「鹹」があまりにも難しい字なので(なんと総画で二十画もある)、右の部分だけを残して「咸」と書かれるようになったというわけである。  毎日の生活で文字を使うには、もちろん字形が簡単な方が書きやすい。しかし簡略化された結果、ある文字本来の意味がまったくわからなくなってしまうことがしばしばある。「鹹」と「咸」の場合もその例であって、今では省略されてしまった≪鹵≫が、実はこの字では大変に重要な働きをしていたのである。 「鹵」は、岩塩や井塩《せいえん》(地下の塩水)など自然に存在する塩を意味する漢字であった。だからこそ「鹹」が塩味を表すわけで、ツクリの≪咸≫は単に「カン」という音を示す要素にすぎない。  そもそも「塩」という字だって、古くは「鹽」と書かれていた。この中に≪鹵≫が含まれているのも、「鹹」とまったく同じである。だが「鹽」もまた大変に難しいので、早々と簡略化された。おなじみの「塩」という字形は、十一世紀の中国で作られた字書にすでに登場している。難しい漢字が嫌いな人は、昔の中国にもちゃんといたのである。 [#改ページ] 47 [#特大見出し] 舌《した》 [#地付き]アヒルの舌   雑誌を中心としたグルメブームが、もうかれこれ十年以上続いているのではないだろうか。和・洋・中、韓国式焼き肉、それになんだかよくわからない「無国籍料理」など、これまでにずいぶんいろんなお店が、さまざまな趣向と主題で、テレビや雑誌などのメディアによってとりあげられてきた。もうそろそろネタ切れだろうと思うのだが、しかしその勢いはいっこうに衰えを見せない。それどころか、どんどんと新機軸が案出されつつあるようで、先日ある仕事で訪れた香川県では、なんと『さぬきうどん店 全店制覇のための攻略本』と銘打った本が、香川県内ではベストセラーの上位に入っていた。日本国中どこに行っても、まさにグルメ花盛りの時代である。  食べ歩きは、誰にとっても楽しいことである。名所旧跡を見て回ることにまったく興味を示さない人は時々いるが、おいしいものを食べに行くのが嫌いだ、という人はめったにいないだろう。人間の口と舌には、言語や音声を出すことと、ものを飲み食いすることという二つの重要な働きがあるが、今の日本ほど、その機能をフルに発揮させることを楽しんでいる時代は他にないだろう。若い女性を中心にしたカラオケシーンに立ち会うと、特にその感を強くする。  だが言語機能としての舌を使うことには、時々とんでもない結果が生じることがある。『論語』に「駟《し》も舌には及ばず」という文がある。「駟」とは四頭立ての馬車で、古代ではもっとも速く走れる乗り物だった。だがいったん口から出たことばは、その「駟」でも追いつけないほど速く世に広まる。だからことばを口にするのはできるだけ慎重でなければならないことと、『論語』は教えてくれているのである。いってはならないことを軽率に口走り、それを悔やんだ経験を持つのは私だけではないはずだ。 ◎「舌」を食べる[#「◎「舌」を食べる」はゴシック体]  食べる方の「舌」の使い方も慎重でなければならないのは、食べ過ぎや食中毒、あるいは肥満など、どなたも身に覚えがあることが多すぎるから、改めていうまでもないだろう。だが「舌」を食べるという機会に恵まれたら、食い意地が張っている私は、そんなに慎重になってはおれない。 「舌」を食べるといっても、牛の舌、いわゆる牛タンのことではない。牛タンも美味ではあるが、アヒルの舌の方がもっとおいしいと私は思う。アヒルの舌、中国語でいう「鴨舌」は、料理の材料として使われる鳥類の舌ではもっとも美味とされており、北京《ペキン》ダックを食べる時のフルコース(「全鴨席」)で前菜の中に登場し、非常に淡泊な味を楽しませてくれる。ちなみに、アヒルでおいしいのはこの舌と皮(パリパリに焼いた皮が北京ダックである)、それに心臓とタマゴ(ピータンになる)であり、肉はほとんど珍重されない。アヒルの肉とは、たくさんの美人秘書に囲まれているおかげでいろんな会合に呼ばれる、つまらない重役のような存在だといえばいいだろうか。 [#改ページ] 48 [#特大見出し] 七《しち》 [#地付き]七は尊い奇数   二で割りきれる数は縁起が悪いから、人さまにものをさしあげる時は絶対に偶数にしてはいけません、と昔かたぎの祖母が口ぐせのようにいっていた。この頃の日本ではあまりこだわらなくなったが、偶数はなんとなく不吉な数と考えられており、大福でもミカンでも、だいたいおすそ分けは三個か五個、と相場が決まっていた。  大福とかミカンなら別に何個でもかまわないけれど、しかしこれが結婚のお祝いを包む話となると、そうそう気軽なことがらではない。我が家は夫婦ともに教師であるという職業柄、結婚式に招かれることが結構よくある。友人や親戚ならいざ知らず、教え子の披露宴となると主賓の座に座らされることも珍しくはなく、そんな時なら持参するお祝いが一万円ではどうにも格好がつかない。ところが、一万がだめならそれじゃ二万、とはこの場合ならないのである。二万を飛び越して一気に三万、あるいは五万となってしまうからやっかいだ。こんなお祝いを、多い時には月に二〜三度包まねばならないこともあった。おめでたいこととはいえ、思わず愚痴りたくなってしまうのも事実である。  このように奇数を尊び、偶数をあまり喜ばないのは、おそらく中国の伝統的な占いである「易《えき》」に由来するのだろう。易は完全な二元論の世界で、森羅万象《しんらばんしよう》をすべて「陽」と「陰」に分けて考える。この「陽」のシンボルナンバーが九、「陰」のシンボルナンバーが六である。 ◎すっぱり断ち切る[#「◎すっぱり断ち切る」はゴシック体]  お祝い事ではもちろん隆盛に向かう「陽」が尊ばれ、その「陽」は奇数によって象徴される。だから慶事では偶数が嫌われたのだろう。  この考え方が子供のすこやかな成長を願う儀式に反映したのが、「七五三」である。数え年の三歳はまだ幼稚園にも入っておらず、そんな小さな子供が、親の手間とカネをたっぷりつぎこんだ大仰《おおぎよう》な晴れ着に包まれながら、ふうふういいながら歩いているのは、まことに微笑《ほほえ》ましい光景である。だが七歳になると、そろそろこまっしゃくれた子供もいて、たまに晴れ着を着せてもらったものだから、なにかスターになったような気分になっている。 「七」の古い字形は、現在の漢数字の「十」によく似ているが、これは左右に走る横線を上下の縦線で断ち切ることを表しており、もともと「すっぱりと断ち切る」という意味だった。「切」という字が≪七≫と≪刀≫からできているのがその証拠なのだが、人間だって生まれて七年も経てばもう立派な少年少女だ。 [#挿絵(img¥48.jpg、横120×縦160、上寄せ)] 「七五三」の「七」とは、少年少女が幼年期とすっぱり決別する年齢にちがいない、と私は勝手に解釈している。なるほどスター気取りの生意気なガキがいるのも当然だ。 [#挿絵(img¥p113.jpg)] 49 [#特大見出し] 謝《しゃ》 [#地付き]「謝謝《シエシエ》」のお国がら   新学年が始まって最初の中国語の講義の時に、教室にいる学生全員に紙を配り、いま知っている中国語の単語(ないしは中国語だと思っている単語)をすべて書け、というアンケートをこれまで何度かとったことがある。アンケートとはいっても、これから中国語を勉強しようとする学生に尋ねるのだから、まともな単語が返ってくることはあまりない。回答の中でずば抜けて多いのは、やはり「炒飯《チヤーハン》」とか「餃子《ギヨーザ》」といった中華料理に関する語彙《ごい》である。料理以外では、「立直《リーチ》」や「平和《ピンフ》」といった麻雀に関する語彙が以前はよく登場したが、最近の学生は麻雀をほとんどしないから、これは急激に減った。  代わって増えてきたのが、中国語の簡単なあいさつ表現である。「こんにちは」にあたる「|※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]好《ニーハオ》」や、「謝謝《シエシエ》」(ありがとう)をまちがわずに書ける学生が、ここ数年は必ず何人かいる。中国との往来がさかんになるとともに、日本の社会のあちらこちらで生きた中国語が少しずつ使われるようになってきた、という事実の反映なのだろう。 「謝謝」は日本人が知っている中国語の横綱だ。これは感謝を意味する動詞「謝」を重ねた言い方であり、もっともよく使われる「ありがとう」である。 ◎礼をいうのは客の方?[#「◎礼をいうのは客の方?」はゴシック体]  ところで中国は社会主義国だから、かつては全国民が国家から職業を分配された国家公務員として労働に従事するのが原則であった。国営商店の店員は、商店が独自に採用した被雇用者ではなく、国から派遣されて商品を販売している公務員である。だから店で買い物をする客は、公務員から代金と引き換えに商品供給サービスを受けているわけであり、ちょうど日本人が役所で住民票を発行してもらうのと同じ性格の行為である。だから商店での買い物の際に礼をいわねばならないのは、店員ではなく、客の方なのである。  改革開放経済の浸透によって、最近はこの状況が大きくさまがわりしつつある。今では店員が「謝謝」をいうのが普通である。しかし中国で編集された中国語の教科書で、会話練習教材として描かれる買い物の場面には、客が店員に向かって「謝謝」といい、店員が客に「不謝」(どういたしまして)と返事するシーンが今もある。その制度に慣れない日本の学習者は、なぜこんな会話が展開されるのかまったくわからない。  だが店員と客のどちらが礼をいうかとまどうのは、中国人だって同じことである。ある知り合いの中国人の思い出話だが、彼は若い頃、日本留学を目指して日本語を勉強していた。その時彼がテキストとして使ったのは、日本で編集された日本語学習教材だった。だから当然、買い物のシーンでは店員が「ありがとうございました」と客に向かって礼を述べるようになっている。しかし彼はなんど考えても、その仕組みが理解できなかった。そして考えたあげく、これはきっと誤記にちがいない、との結論に達したそうだ。 [#改ページ] 50 [#特大見出し] 震《しん》 [#地付き]震《ふる》える蛤《はまぐり》   自宅が兵庫県西宮市にあるものだから、わが家も阪神・淡路大震災では激しい揺れを経験した。さいわいに家人も家屋もまったく無事だったが、震災の恐怖はあれから数年経った今もまだ脳裏《のうり》に鮮明である。 「地震」とは文字通り「地が震える」ことである。しかし「震」は≪雨≫カンムリがついていることから推測されるように、もともとは気象現象に関する文字だった。  後漢《ごかん》の時代に作られた『説文解字』に、「震」は「劈歴《へきれき》なり、物を振るわすものなり」とある。ここにいう「劈歴」とは「霹靂《へきれき》」、すなわち「青天《せいてん》の霹靂」という時のそれで、急に激しく鳴る雷のことである。それが「ふるえる」という意味で使われるようになったのは、雷鳴《らいめい》にともなう激しい空気の振動から連想された結果である。  この字は≪雨≫と≪辰≫からできており、≪雨≫は気象に関することばであるが、≪辰≫はここで単に「シン」という音を表すためだけに使われている。  それでもしかし、「震」の他に「振」や「娠」、それに「蜃」など、≪辰≫によって音を示される一群の漢字を考えると、そこにはどうやら「揺れ動く」という共通の意味が存在すると考えられる。 「振」は手で揺り動かすこと、「娠」は胎児の胎動をいう。また「蜃」は「蜃気楼《しんきろう》」ということばに使われているが、それは空気がゆらゆらと揺れる現象である。 ◎キジがハマグリに変身[#「◎キジがハマグリに変身」はゴシック体]  蜃気楼は大気の密度が温度差によって異なることから生じる、光の異常|屈折《くつせつ》現象だそうだが、古代中国では、それは海中にいる大きなハマグリが起こすものと考えられた。『説文解字』では「蜃」に「大蛤《おおはまぐり》」という訓を与えている。そしてその大ハマグリは、なんと山に暮らすキジが姿を変えたものであったという。  キジがハマグリに変身とはずいぶん荒唐無稽《こうとうむけい》な話だが、しかしもともとは由緒正しい儒学の経典の記述である。  礼儀作法の基本理念を述べた『礼記《らいき》』の中に、「月令《がつりよう》」という一篇がある。これは自然界や社会での月ごとの移り変わりを記すものだが、その十月の部分に「水は始めて氷り、地は始めて凍《い》て、雉《きじ》は大水に入りて蜃《はまぐり》となる」という一節がある。  キジが海中に入ると「蜃」になるらしい。そしてこの大きなハマグリが海中で吐き出した息が蜃気楼となり、地中で暴れると地面が激しく振動する。古代中国人はそのように信じていた。  被災した地区では復興が着々と進んだ。一時は多くの人が立ち去った神戸にも大勢の人が戻り、繁華街もかつてのにぎわいを完全に取り戻した。もう二度と、あんな忌《い》まわしい経験はしたくない。だから私はせっせとハマグリを食べて、地震の芽をつみ取っている。 [#改ページ] 51 [#特大見出し] 雀《すずめ》 [#地付き]麻雀《マージヤン》の焼き鳥   しばらく前のこと、佐渡で孵化《ふか》に成功したトキが人気を集めていた。ヒナの名前を公募するというニュースを聞いた時、私はたちどころに「ドキドキ」という名前を考えついたのだが、家人の猛反対を受けて、結局応募しなかった。それにしても、コウノトリといいトキといい、かつては思い切り乱獲をしたことも忘れて、絶滅寸前になると大騒ぎするのだから、わが国民も勝手なものである。  トキとは逆に、どこででも見かけることができる、もっとも身近な鳥の代表はスズメである。「雀」は≪隹≫と≪小≫からなる会意の文字で、文字通り「小さなトリ」という意味から作られた漢字である。しかしこの字は時に、鳥類の総称として使われることもある。「孔雀《くじやく》」とか「朱雀《すざく》」という使い方がそれである。  さらにこの漢字は、鳥を意味する他に、日本では「マージャン」というゲームの名称にも使われている。  文化大革命時代の中国では、マージャンが厳しく禁止されていたが、最近では完全に復活し、家庭でマージャンを楽しむ人が多いそうだ。私も北京《ペキン》の知人の家で誘われて、一度だけ遊ばせていただいたことがある。その時の記憶ではルールは日本とほとんどちがわなかったが、通常の牌《パイ》の他に「聴用《テインヨン》」(また「百塔」と書かれることもある)という名前の、オールマイティとして何にでも代用できるという牌が四枚あったのがなかなか面白かった。配牌にこれが二枚も入っていれば、組みあわせが非常に難しくなるのである。 ◎麻雀とスズメ[#「◎麻雀とスズメ」はゴシック体]  マージャンのルーツとしてもっとも古くたどりうるものは、唐代に遊ばれた「彩選」というゲームであり、それが種々の変化を経て明《みん》代中期には「馬吊牌《マーテイアオパイ》」という名前の遊戯となった。ここですでに現在のマージャンの基本形ができあがっていたが、この遊びの名前がやがて「麻雀」と呼ばれるようになったのは、はじめ「索子《ソーズ》」の牌にはスズメが描かれたことによるともいわれ、また小さなレンガ状に作られた牌を卓上でかきまぜる音が竹藪《たけやぶ》に群がるスズメの鳴き声のように聞こえるからである、ともいう。  いずれにせよスズメがこうしてゲームの名称と密接な関連をもつようになったのだが、しかし現在の中国でマージャンを「麻雀」と書くのは香港《ホンコン》など南方地域だけで、大多数の地域では「麻将」と書く。  逆に現在の中国語で「麻雀」と書けば、それは「スズメ」を表すことばとなる。だから日本に来たばかりの中国人は、日本の街角のあちらこちらに「麻雀」と書かれた看板があるのを見て、日本ではなぜこんなにあちこちスズメを売る店があるのだろうか、日本人はそんなにスズメの焼き鳥が好きなのだろうか、と不思議に思うという。 [#改ページ] 52 [#特大見出し] 税《ぜい》 [#地付き]税を穀物で納める   所得税の確定申告の季節になると、毎年のように気が重くなる。私などもちろんそんなに稼いではいないけれど、国立大学教官(国家公務員)としてもらう給料以外に、印税や原稿料による収入が若干あるから、一応確定申告の対象者ではある。  ところがこれが、文学部卒業のものにはなかなかやっかいなのである。最近はパソコンに便利なソフトがあって、あらかじめ入っている書式に金額を打ち込むだけで税額が計算できるから、ずいぶん楽になった。しかしそれでも、税額の計算はあまり楽しいものではない。新聞に発表される長者番付(高額納税者リスト)に載るような、何億円も税金を納める人たちには、きっと庶民にはわからない苦労もあることだろう。  近頃では納税者も賢くなっていて、払いすぎた税金を少しでも返してもらう「還付《かんぷ》請求」の手続きをする人が激増しているらしい。還付請求は当然の権利だから、どんどん行使するべきだ。  だが病気もしなければ今や住宅取得|控除《こうじよ》も受けられない私には、還付に該当する事由がない。その時期の雑誌や新聞に載る「こうすれば税金が戻る」という特集など、私にはほとんど情報価値がない。 ◎使途を鋭く監視[#「◎使途を鋭く監視」はゴシック体]  納税が国民の義務であることは承知しているが、しかし必ずしも必要ではないと思われる公共工事にお上《かみ》の都合で大量の資金をつぎ込んだり、金融機関が貸しつけたカネが回収不能になれば税金で尻ぬぐいする、というような、税金の理不尽な使い道を新聞などで見ると、善良なる納税者でいつづけることがいささか馬鹿らしくなるのも事実である。 「税」という漢字は、意味を表す≪禾≫と、発音を表す≪兌≫とからできており、≪禾≫とはイネなど穀物の総称として使われる文字であった。この字がヘンについていることからわかるように、税はもともと穀物で納められたものだった。 [#挿絵(img¥52.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  古い時代では人間の数や家の戸数、あるいは土地の広さによって課税され、納税には穀物か布が使われた。  それがやがて経済の発展とともに貴金属や貨幣で納められるようになったのだが、しかし漢字は依然として、穀物納入時代の「税」をそのまま使っている。  もしカネで納めるのだからと≪禾≫を≪金≫に置き換えれば、「税」が「鋭」になる。納「税」したあとも、使途を「鋭」く監視しなければならない、ということなのだろうか。 [#改ページ] 53 [#特大見出し] 銭《ぜに》 [#地付き]銭|儲《もう》け   高校の同窓会があって、かつての同級生たちと久しぶりの雑談に興《きよう》じた。こういう席ではその場にいない者のうわさがとびかい、それは概してひどい話になる。事実その時も、実業界でめざましく活躍している人物の話になり、「あいつは学生時代からゼニモウケが上手だった」というような話が出た。  利殖の才に富むことを世間では「金儲けがうまい」とか、「銭儲けがうまい」とかいう。この二つのいい方はほとんど同じ意味であるものの、ニュアンスはかなりちがい、「金儲け」が比較的ふつうに使われることばであるのに対して、「銭儲け」にはむきだしで強烈な語感がある。はなはだしい時には聞き手にダーティなイメージを与えることすらある。  これはもしかしたら、「金」と「銭」という文字が与える語感の差異かもしれないと思って辞書を繰り、この漢字を使った成語を調べてみた。  中国の文献に見える「銭」の用例では、「銭無足而走」(銭は足無くして走る)とか「有銭可使鬼」(銭有れば鬼をも使うべし)とか、かなり大胆に貨幣をむきだしに表現する例がいくつも見つかる。  それに対して「金」の方は「金属」や「貴重なもの」を意味する用例がほとんどで、「金」が「貨幣」を意味するとも見える例には、ただ「攫金者不見人」(金をつかむ者は人を見ず)という成語が見つかったくらいである。  このことばの出典は『列子《れつし》』であり、むかし斉《せい》(戦国七雄の一つ)の国にいた欲深い男が、ある朝りっぱな身なりをして市に行き、「金を鬻《ひさ》ぐ者の所に適《ゆ》きて、因りてその金を攫《つか》みて去」った。驚いた人々がその男を急いで取り押さえて、公衆の面前で堂々と盗みをしたわけを問いただしたところ、くだんの男が「金を取る時は人を見ず、ただ金のみを見る」と答えた、という故事である。 ◎銭と貨幣の差[#「◎銭と貨幣の差」はゴシック体]  さてこの話に出てくる「金」は、はたして貨幣であろうか。男が強奪《ごうだつ》した「金」は、市で売られていたのである。であるとすれば、それは貨幣であるよりはむしろ何かの貴金属、あるいは高価な金属製品だと考えるべきであろう。そうするとその「金」も貨幣ではなくなり、成語の中では貨幣を指す「金」字がなくなってしまう。  要するに中国では「銭」ははっきりと貨幣を意味し、いっぽう「金」の方は「貨幣」を意味することは少なかった(完全に調べたわけではないので、絶対にないと断言する自信はない)。「銭儲け」という言い方が強烈なイメージを与えるのも、それがそのものズバリの直截《ちよくせつ》的な表現だからなのだろう。おかげであわれ、我が同窓生はまるで守銭奴《しゆせんど》のように思われてしまった。 [#挿絵(img¥p125.jpg)] 54 [#特大見出し] 即《そく》 [#地付き]即席ラーメンの背景   昭和二十年代に生まれた人ならば、「インスタント・ラーメン」が登場した時の衝撃を今もあざやかに覚えているのではないだろうか。  私がもの心ついた頃から、ラーメンという食品はたしかにあった。しかし当時「中華そば」と呼ばれたそれは、自宅で作られる料理ではなかった。少なくとも我が家では、中華そばはたまの外食時に中華料理屋で食べるか、またまれには出前で取り寄せる「ごちそう」のひとつだった。  そんな時に、ある大手食品メーカーが「インスタント・ラーメン」を鳴り物入りで売り出した。昭和三十三年のことだった。よくご存じの通り、初期のインスタント・ラーメンは麺をそのまま丼《どんぶり》に入れ、上から熱湯をかけて蓋《ふた》をし、しばらく待てばできあがり、という非常に簡単なものだった。具はもちろん、薬味すらついていなかったが、しかし湯をかけるだけという手軽さがうけ、また物珍しさも手伝って、インスタント・ラーメンは爆発的に売れたようだ。  私だって、受験生時代の夜食にはこれにずいぶんお世話になった。夕食をしっかり食べたはずなのに、夜中の十二時を回るともう小腹がすいてくる。台所をゴソゴソさがすと、ラーメンの袋がある。さっそく湯を沸かし、丼にラーメンを入れて熱湯をそそぐ。麺がやわらかくなるまでの三分ほどが待てずに、麺がまだ硬いのをかまわず、熱いスープと一緒にすする。今から思えば決して美味《うま》いものではなかったのに、冬の寒い晩など、それは至福ともいえる時間であった。 ◎「即」が作られた背景[#「◎「即」が作られた背景」はゴシック体]  甲骨文字の勉強をしはじめて、[#挿絵(img¥54.jpg)](=即)という字に出くわした時、受験生時代、深夜にラーメンを食べた思い出が脳裏によみがえった。 「即」の左側にある≪皀≫は高坏《たかつき》(食物を盛る脚つきの皿)に食物が盛り上げられた形である(ちなみに、それに上から蓋をかぶせた形が「食」である。六八ページ参照)。  そして「即」の右半分にある≪卩≫は、≪皀≫の横にひざまずいた人間が、口を大きく開けて今にもその食物に喰らいつこうとしている形である。  この形からこの文字は全体で「(食事の席に)即《つ》く」という意味になり、さらに「今すぐこれから・まもなく」という意味を示すようになった。  ラーメンがまだやわらかくなっていないうちに喰らいついた経験がある私には、「即」が作られた背景が実によくわかる。いやそれはきっと私だけの経験ではないだろう。つまりどんなに時がたっても、人間はそんなに進歩していない、ということなのだろうか。 [#改ページ] 55 [#特大見出し] 正《ただしい》 [#地付き]正しい戦争  「正月」を英語でどういうのだろうと思って和英辞典を引いてみたところ、January とか New Year しか出てこなかった。思った通りの結果だったが、これではどうもしっくりこない。  私の感覚では、January は「一月」であり、New Year は「新年」である。それはどちらも一年の最初に位置することは間違いないが、しかしともに「正月」ではない。「正月」には、≪改まった特別な月≫というニュアンスがあるが、「一月」や「新年」にはそれがない。「寝正月」や「盆と正月」という表現における「正月」を、「一月」や「新年」で言い換えることは絶対に不可能である。  子供のころ、正月に兄とささいなことでケンカをして、父からこっぴどく叱《しか》られた記憶がある。普段ならどうということもない行為が、正月であるというそれだけの理由で禁止される。このように私たちが一年の最初の月を、行動や精神を反省しつつ、きわめて特別に過ごそうとするのは、やはりそれが「正しい月」だからなのだろう。つまり正月の過ごし方に関しては、「正」という漢字の持つ意味が相当に大きく作用しているといえる。  しかし「正」とはもともと非常に血なまぐさい文字だった。「正」から上の横線をとると≪止≫になるが、「止」は人間の足跡をかたどった象形文字である。そして現在の「正」の一番上で≪一≫と書かれている部分は、古くは≪□≫という形になっていた。 [#挿絵(img¥55.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  この≪□≫は、壁で囲まれた集落を示す。古代中国の人が暮らす集落は、外敵や野獣の襲撃を防ぐために、土を高く積んで固くつきかためた壁で囲まれていた。そのような場所を山の上などから見ると、□の形に見えたのである。 ◎「正」と「征」は親子[#「◎「正」と「征」は親子」はゴシック体] 「正」は城壁に囲まれた集落に向かって人が進んでいる形を表しており、その目的は攻撃だった。「正」は他者に戦争をしかけることをいう字であり、「勝てば官軍」、勝った者が正義を獲得するのが世の常だ。それでこの字が「ただしい」という意味をもつようになり、今度は逆に本来の「戦争」の意味がしだいに忘れられるようになった。そこで改めて「道路・行進」を示す≪彳≫をくっつけた「征」という字で、もともとの意味を示すようになった。つまり「正」と「征」は親子の関係にあるということになる。  ちなみに海外旅行に出かける日本人のほとんどがバッグの中にしのばせている、おなじみの整腸剤は、もともと「露西亜《ロシア》」を「征伐」するために従軍した兵隊さんが、水の悪い土地でもおなかをこわさないための丸薬《がんやく》、という意味で命名されたものだった。だから商標が「ラッパのマーク」なのである。しかし露国が日本に対する戦勝国となった第二次世界大戦後は、まさか露国に対して「征伐」などというわけにもいかないので、それで「征」が「正」にかわった、という次第である。 [#改ページ] 56 [#特大見出し] 旅《たび》 [#地付き]旅で一戦   自宅では書物をひっくりかえして雑文を書き、外に出れば教壇の上から学生だけを相手に話をする、という仕事をしている者にはあまり実感がないのだが、バブルとやらがはじけて以来、世間では不景気がずいぶん長く続いているらしい。  タクシーに乗れば運転手さんから、スナックによればママさんから、不景気の実態と景気回復の願望をえんえんと聞かされる。経済学の知識が皆無《かいむ》に近くとも、これだけ聞かされたらやはり今は永く不景気が続いているのだなと信じこんでしまう。  しかしそれならば、正月や夏休みの時期、あるいはゴールデンウィークなどでの空港や主要駅の、あの驚くべき混雑はいったい何なのだろう。不景気だとはいうものの、ターミナルの人出はいっこうに減っていないと私には感じられる。景気の動向にかかわらず、旅行のためだけに使われる魔法の財布でも別にもっておられるのだろうか。  とかく現代人は旅に出たがるものだ。かく申す私とて、もちろん例外ではない。国内であろうが海外であろうが、旅先には土地ごとの珍味や銘酒を味わえる楽しみがあるし、素朴でおだやかな人情に接することも多い。そして何よりもそこには、普段の生活からは得られない発見があって、固くなりつつある頭をほぐすことができるし、日常に埋没《まいぼつ》している自分を外側から見直すこともできる。  しかしそれは現代のレクリエーションとしての旅であり、昔の旅はそれとはまったく意味のちがうものだった。旅とは何かの必要があっておこなわざるをえない移動であり、それは決して楽しいものではなかった。 ◎もとは軍隊の編成単位[#「◎もとは軍隊の編成単位」はゴシック体] 「旅」という漢字は、今の漢和辞典では四画の≪方≫部に収められているが、もともとは旗や族、旋、旌、旛などと仲間の字で、部首は≪※[#「方+人」]≫である。  これは「吹き流しのついた旗」を表しており、「旅」はそのような旗をもった人の後ろに何人かつき従っている形を示し、旗は氏族のシンボルであった。  このように先頭に旗を立てて行進するのは戦争のためであった。「旅」とはもともと遠征に出かける軍隊の編成単位を示す文字で、古い文献には「軍の五百人を旅となす」とある。昔の日本軍でも使われた「旅団」という時の「旅」が、まさにその意味なのである。  いかに旅行好きな人でも、このような「旅」はまっぴらごめんだろう。誰だっていかめしい軍旗よりも、旅行会社の添乗員がもつ団体旅行旗についていくほうが楽しいし、「一戦交え」なければならないのだったら、ぜひとも相手が美しい異性であってほしいと願う。  平和な「旅」ができる時代に生まれてよかった、とつくづく思う。 [#改ページ] 57 [#特大見出し] 為《ため》 [#地付き]為になる象   未曾有《みぞう》の不況にもかかわらず、行楽にもってこいの季節は毎年きちんと巡ってくる。景気のいい頃ならば泊まりがけの旅行でも考えるところだが、なにせこのご時世、ついつい近場でということになる。そんな時、小さい子供がいる家なら動物園が最適だ。動物園なら入場料も高くないし、珍しい動物や鳥を、身の危険も感じずに見られるのだから、大人だって半日くらい遊んでも退屈しない。  わが家も子供が小さい頃はよく動物園に出かけたものだ。子供たちは特に象を見るのが好きだった。長い鼻を振り回すしぐさはなんとも愛嬌《あいきよう》があるし、何よりもその圧倒的な大きさが人を惹《ひ》きつける。先史時代の洞窟《どうくつ》の壁画にマンモスが描かれるように、太古の昔から、象は人間に大きなインパクトを与える動物だった。  象が魅力的に感じるのは単に大きさだけでなく、上手に飼育すれば人間に大変に有用な動物となるからでもある。象は益獣だし、さらに死後には象牙《ぞうげ》という貴重な工芸品の素材も提供してくれる。 ◎人間が象の鼻をつかむ[#「◎人間が象の鼻をつかむ」はゴシック体]  アジアでは古くから象が家畜として飼育され、土木作業などに使われていた。そのことを端的に示すのが「為」という漢字である。 「為」とは人間の手が象の鼻をつかんでいる形を示しており、本来は象を使役《しえき》することを意味する文字だった。 [#挿絵(img¥57.jpg、横120×縦200、上寄せ)] 「為」の本来の字形は「爲」で、上部にある≪爪≫は、のちにはツメの意味で使われるが、もともとは、手の甲を上に向けてかざす形を示していた。  一〇〇キロを超えるような重い資材を楽々と運搬できる象の力は、古代ではなにものにも代えがたいものだった。クレーンが発明される前に、重いものを持ちあげるためには、象が最高の「道具」だった。宮殿の建築などのために大量の材木を運搬する時などには、象が使われたにちがいない。  こうして象を使役することから、「仕事をする」という意味を「為」という字で表現するようになったのである。  今でもタイなどでは象が家畜として飼われているそうだが、残念ながら日本では象は動物園にしかいない。そのかわりわが国には、長い鼻のようなモノを握って「お仕事をする」女性が、各地の歓楽街にいるようだ。 [#改ページ] 58 [#特大見出し] 妻《つま》 [#地付き]妻には勝てぬ  「富士の高嶺《たかね》に降る雪も」ではじまる「お座敷小唄」が大流行したころ、私はまだ小学生だった。大人向けとはいえ、明るく軽快なメロディだったからこの歌は小学生にもたいへん歌いやすかった。  だが歌詞にある「妻という字にゃ勝てやせぬ」という一節は、小学生にはどうにも理解できなかった。もちろん「妻」が奥さんのことだとわかってはいるのだが、それが「妻」という漢字といったいどうつながるのか、その微妙なニュアンスが、子供にはわかるはずもなかった。  今とちがって、はるか昔の中国では女が男より一段低い地位におかれていた。そんな封建的な時代に作られた漢字には男尊女卑的な思想がどうしても含まれている。  たとえば「女」という字が手を前に組んでひざまずいた人の形象だというのはその代表的な例である。 [#挿絵(img¥58.jpg、横120×縦200、上寄せ)]  しかしそれ以外の女性を表す文字は、決してそんなにひ弱で虐《しいた》げられた背景をふまえて作られたものではなかった。女性ははるか昔から、たくましく、そしておおらかに、力強く生きていたのである。  結婚すれば男は「夫」となり、女は「妻」となる。この二つの漢字はどちらも髪にかんざしのような飾りをつけた形に書かれる。 「夫」とは人が直立した形を正面から描いた≪大≫の頭部に飾りをつけた形であり、「妻」も同じく頭にかんざしを挿した盛装の女性であるが、こちらは先が三本にわかれていた。おそらく古代の結婚式では、新郎新婦がこのような髪飾りをつけたのだろう。 ◎母尊父卑への転換点[#「◎母尊父卑への転換点」はゴシック体]  男の前にひざまずいていた「女」が、年頃になると伴侶《はんりよ》を得て「妻」になる。この「妻」という字には、人生最大のイベントである結婚式で美しく装い、華やいで輝く女性の姿が表現されていて、そこにはもはやひざまずいていた暗いイメージはない。  この「妻」がさらに「母」になると、乳房によって自分の分身と緊密に結びつく。女はこの時、夫との間にそれまで存在していた一対一の関係を捨て、新たに一対多の関係をもつ存在として、男の前に現れる。子孫の継承と人類の繁栄に直結する母はまことに強い。この強さによって関係が逆転し、今度は神妙にひざまずく順番が、男の側に回ってくる。 「男尊女卑」から「母尊父卑」への転換を文字で表現すれば、「妻」という字がちょうどそのターニングポイントにある。はるか昔「お座敷小唄」の歌詞を理解できなかった小学生はいま漢字研究者となり、なるほど「妻という字にゃ勝てやせぬ」わけだと、ひとり物思いにふける。 [#改ページ] 59 [#特大見出し] 辛《つらい》 [#地付き]胡椒《こしよう》は至って辛辣《しんらつ》   仕事で北京《ペキン》にしばらくいた時、たまたま街中で昼食時となった。ホテルまで戻るのも遠いし、どこか近くで食べようとあたりを物色すると、すぐ近くに四川《しせん》料理店があった。なかなかきれいな店だし、そんなに高そうでもないので、まよわずそこにとびこんだ。同行の友人も私も、どちらかといえば「激辛《げきから》歓迎」のクチである。  席につくと、おさげ髪のまだ十代とおぼしき少女が早速メニューを持ってきた。品数も豊富だし、値段も手頃だったから、いい店に入ったとよろこびながら料理を注文していると、少女が「虎尾辣椒《フーウエイラージアオ》」という名の料理を指さして、「うちに来る客はまずこれを注文する」という。どうやらこの店の名物料理らしい。 「辣椒」とは唐辛子《とうがらし》であって、しかも四川料理屋のものだ。ここはひとまず警戒しておこうと思い、「からいのだろう?」とたずねると、少女はにこやかに微笑み、私なんか小学生の頃から食べてるよ、という。  それならばと安心してそれも含めて注文すると、小さめのニンジンくらいの唐辛子を空揚げにしたのが真っ先に出てきた。この大きさが「虎尾」だなと納得しつつ、ひとくち食べてみて、あまりのからさに卒倒しそうになった。世の中にこんなからい料理があっていいのかと、神をうらみたくなるほどに、それは強烈なからさだった。しかし少女が語るところでは、四川省では子供でもこれを平気で食べているとのことだった。四川おそるべし、である。 ◎「つらい」は「からい」?[#「◎「つらい」は「からい」?」はゴシック体]  からい味を漢字では「辛」という字で表す。「辛」は入れ墨を入れるのに使う針をかたどった文字であり、入れ墨が罪人に施されたことから、やがて「罪」という意味を表すようになった。そしてそこから「つらい」という意味になり、さらに意味が拡張したのが味覚の「からい」である。 [#挿絵(img¥59.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  今の中国語ではからい味を「辣」という。「辣椒」や「辣油《ラーユ》」の「辣」であるが、単独で使われる以外に、「辛」と組みあわせて「辛辣」という熟語を作る。  今の日本語の「辛辣」は「手厳しい」という意味で使われるのが普通で、料理の味の表現には使われない。  しかし「辛辣」も、もともとはからい味をいうことばだったのである。  唐の時代(六一八〜九〇七)に作られた『酉陽雑俎《ゆうようざつそ》』という随筆集に胡椒の話が見える。  この本によれば胡椒はインドから中国に伝わったものらしく、唐の人々はすでに肉に下味をつける調味料として胡椒を使っていた。そしてその味について、「至って辛辣」と記されている。たかが胡椒ごときで「辛辣」とはなんとおおげさな。著者はきっと四川の人ではなかったにちがいない。 [#改ページ] 60 [#特大見出し] 党《とう》 [#地付き]党は五百軒の家の集まり   戦後始まった保守政党による長期単独政権の時代が終わってから、早いもので七年近くの時間が経った。私が子供の頃は、大臣と名のつくものは総理であろうが国務大臣であろうが、すべて自民党の政治家であったが、最近では必ずしもそうとは限らなくなった。  それにしても、この間の政界の再編成は実にめまぐるしかった。既存の大政党から威勢のよい人が飛び出して新党を作ったかと思えば、それがまた分裂したり、他のグループと部分的に協力しあったり、中には飛び出したはずの大政党にオメオメと復党したりと、まことに複雑怪奇なありさまであった。政党はまさに乱立状態といっても過言ではない。それは現在も続いており、さらにはこれからもしばらくは続くことだろう。まったく、いつまでやるの、という感じである。  動脈硬化的な状況を呈していた既成の政党が、新陳代謝して時代に対応できるように組織変えすること自体は、決して悪いことではない。しかし改変の結果としてできあがった新しい党の政策が、従来のものとどこがどのように変わったのか、あるいはいったいなにが「売り」なのか、その辺がよくわからない党派も少なくないと私には見受けられる。 ◎党の本来の意味[#「◎党の本来の意味」はゴシック体] 「党」という字が政治的集団の名称として使われるようになったのは比較的新しい時代のことで、もともとこの字は「地域統治のための行政単位」を意味していた。古代の中国では五百軒の家の集まりを「党」と呼んだ(一説には、二百五十軒を一「党」とするという)。そこからグループという意味ができ、それがやがて政党という意味に発展していった。 「党」の本来の字形は「黨」である。この漢字に≪黒≫が構成要素となっているが、それは、各家についているススで黒くなった煙突を意味しているのである。  古代の日本には、「民のカマド」がにぎわっているかどうかで統治が成功しているかどうかを判断した為政者《いせいしや》がいたそうだが、「民のカマド」を視察するには、それぞれの家の中に入っていかなければならない。権力者がそんなことをするはずがなく、実際には彼は家々の煙突から煙が立ち昇っているのを眺めて満足したのである。  煙突は生活のバロメーターである。「党」とはそんな生活のシンボルともいえる煙突で結ばれる地縁共同体のことだった。それがやがて、考えや目的を同じくするグループを指すようになったのだが、しかし日本の選挙で続々と登場する「党」の中には、いまだにたった五百軒くらいの小さな組織しか視野にいれていないものがあるようだ。文字本来の意味ならそれでいいのだが、国の命運を任せる組織として考えれば、まことに困ったことである。 [#改ページ] 61 [#特大見出し] 鳥《とり》 [#地付き]鳥を見る   もうずいぶん前のことになるが、ヨーロッパの高尚《こうしよう》な趣味人の中で「バードウオッチング」なるものが流行しているということをはじめて聞いた時、それがいったいどのような行為なのか、即座にはのみこめなかった。詳しく聞いてみると、森や野原にいる鳥のすぐ近くまで、息をひそめて近寄り、あるいは双眼鏡などを使って、鳥を驚かさないようにじっと眺める、ただそれだけのことだという。  当時の私の感覚では、単に鳥を眺めるだけという行為のいったいどこが面白いのか、さっぱりわけがわからなかった。野生の鳥に近づく必要があるのは猟師か生物学者くらいだと思っていた私には、一般の人がハンティングでも観察でもなく、純粋に趣味として鳥に近づくとは、まったく考えられなかった。  だが最近は、私もバードウオッチングの楽しさが少しわかりだした。医者から勧められて朝夕に近所を散歩するようになってから、民家の近くにもいろんな鳥がたくさんいることに気づいた。形も色も、そして鳴き声もまさに千差万別の鳥の名前がぱっとわかれば、それはきっと楽しいことだろうなと思うようになった。  鳥を愛好するのは、別にヨーロッパの貴族だけではない。中国でも公園にいくと、多くの老人があちこちの木の枝に鳥かごをぶらさげている。鳥を飼うのは東洋でも伝統的な文人趣味の一つであった。今の中国では、定年で仕事をリタイアした老人たちが、自慢の鳥を公園などに持ち寄っては、もっぱら鳥の鳴き声を楽しんでいるようだ。  ただ中国人が鳥を楽しむ方法には、鳴き声の他に鳥を喧嘩させて競《きそ》わせるという荒っぽい趣味もあるらしい。イギリスの愛鳥家が聞いたら卒倒しそうな話である。 ◎「洗鳥役人」とは[#「◎「洗鳥役人」とは」はゴシック体]  野生でもペットでも、鳥がのどかに餌をついばんでいるのは、見る者をなんとなくほっとさせる光景だ。しかし過去の中国語では、「鳥」はそれほど穏やかな文字ではなかった。この字は時として、男性性器を意味することもあった。「鳥」を指す「ニィアオ」(niao)という音が、男のモノを意味する「ディアオ」(diao)とよく似ているので、「鳥」がやがて男のモノを指して使われるようになり、さらに「このチ○ポコ野郎」という品のない罵倒語《ばとうご》としても使われた。  明《みん》の時代のこと、ある高級官僚のイチモツにできものができた。それを知ったある田舎者《いなかもの》が、イチモツを薬液で洗ってみたところ、できものがきれいになくなった。すっかり喜んだ官僚は、謝礼の意味をこめてその田舎者を役人に取りたててやった。しかしそのような行為で官界に進んだ役人を、世間の人々は「洗鳥役人」とからかったという。  過去の中国では、「バードウオッチング」という趣味など絶対存在しなかったことは確実である。 [#改ページ] 62 [#特大見出し] 嬲《なぶる》 [#地付き]嬲と驚きの出会い   中学生の時だったと思うが、なにかの本で「嬲」という字に出会い、それが「なぶる」と読む字で、「もてあそぶ」という意味であることを知った時にはずいぶん驚いたものだった。二人の≪男≫の間に≪女≫がはさまれている形で「なぶる」という意味を表すのは、まるでたちの悪い冗談のようだ。  折しも性的好奇心の強い時期だったから、「嬲」が「なぶる」なら、逆に「嫐」という漢字があっても不思議ではないだろう。それだったら「嫐」はなんと読むか、と友人たちとふざけながら考えたものだ。  私を含め友人たちはみな、脳ミソ全体がうっすらピンクに染まっていたものだから、「嫐」を「ハーレム」と読んだり、「痴女」と読んだり、そこにはまったく学問的好奇心の片鱗《へんりん》すら感じられなかった。  それからしばらくして、大学で中国文学を専攻した私は、中国最古のアンソロジーである『文選《もんぜん》』という格調高い文献で「嬲」の字に出くわし、ふたたび驚いた。はなはだ無知なことではあったが、それまではてっきり、「嬲」などどこかのジョーク好きな人が勝手に作った「アイデア漢字」のひとつだと考えていたのだった。この漢字が相当早い時代から中国の文献に登場する「正真正銘の漢字」であることを、私はこの時にはじめて知った。中国の漢字である限り、必ず日本語の音読みがある。ちなみにこの字の音読みは「ジョウ」である。 ◎嫐も同じ意味[#「◎嫐も同じ意味」はゴシック体] 「嬲」がこのように古い文献に登場する、正真正銘の漢字であるのならば、もしかしたら私たちが中学生の時にふざけて考案した「嫐」だって、中国にもともと存在する漢字なのかもしれないな。そう考えてさっそく調べてみると、その予想はぴったり的中した。 「嫐」もれっきとした中国製の漢字であり、「嬲」の異体字として早くから使われていた文字であった。つまり両者は同じ意味で使われる漢字なのであった。  男二人が女をあいだにはさむ「嬲」が「なぶる・愚弄《ぐろう》する」ことなら、女二人が男をあいだにはさんだ形の「嫐」だって、やはり同じ意味になるのは、思えば当然のことだ。この二つの漢字に関して、「男女の機会不均等」はどうやら存在しなかったようである。  なおこの漢字はどちらも、通産省がパソコンやワープロなどの電子情報機器で漢字を使うための規格として定めたいわゆる「JIS漢字コード」で第二水準の表に収められている。「嬲」はまだしも、「嫐」は日本ではほとんど使われない漢字である。いったいどこのどなたが必要と判断して、この二つの漢字をJISに収めたのだろうか。 [#改ページ] 63 [#特大見出し] 膾《なます》 [#地付き]膾炙は美味な料理   今の日本でのもっともポピュラーな肉料理がバーベキューやビーフステーキであるように、古代中国でも、最初肉を直火《じかび》で焼く、「炙《しや》」と呼ぶ調理方法がさかんであった。「炙」は≪月≫(ニクヅキ)と≪火≫から成り、まさに火の上に肉をかざした字形である。  肉を焼く時は、今のバーベキューと同じように肉を串にさした。その串を意味する「※[#「串」の縦棒が2本、unicode4e33]」という漢字がある。これはたいへんわかりやすい象形文字で、肉に串を通した形をそのままかたどった文字である。  焼き肉を意味する「炙」を使った成語で、日本でもよく知られるものに「人口に膾炙《かいしや》する」という表現がある。  これは『孟子』に見える表現だが、「膾」とは動物の肉を生で食べる料理だから、「膾炙」は要するに肉の刺身と焼き肉のことである。「膾」や「炙」は美味な料理の代表で、いつまでも人々が賞味するものだから、それである人物の素晴らしい行動や優れた詩文などが多くの人からたたえられ、世間に広く知れわたることを「人口に膾炙する」というようになった。  このように、肉は焼く他に、また生で食べることも好まれた。儒学が重視する礼の基本理念を述べた『礼記《らいき》』の「内則《だいそく》」という篇に「肉の腥《なま》にして細きものを膾と為す」とある。  膾の肉は細く切るのが普通だった。人間社会におけるマナーの徹底を主張した孔子は、食事に関してもかなりうるさかったようで、形式がきちんと整った料理しか口にしなかったという話が『論語』にあり、そこで「膾は細きを厭《いと》わず」という。膾はできるだけ細く切ったものがよいとされていた。 ◎日本の「なます」の由来[#「◎日本の「なます」の由来」はゴシック体]  よく知られているように、今の中国では動物や魚の肉を生食することはほとんどないが、韓国には生の牛肉を油と香辛料で調味した料理がある。韓国料理のメニューに「ユッケ」という名前で登場するのがそれで、「ユッケ」を漢字で書くと「肉膾」となる。  生の肉を細く切ったユッケは、おそらく古代の膾の形をそのまま反映したものだろう。また日本でニンジンやダイコンなどの野菜を千切りにして、三杯酢や酢味噌などであえたものを「なます」と呼ぶのも、古代中国の肉の細切りの形に由来するものである。  ちなみに「膾」を使った成語で、日本でもよく使われるものにもう一つ、「羹《あつもの》に懲《こ》りて膾を吹く」がある。「羹」は肉や野菜を煮こんだスープであり、熱いスープで口にやけどをした人が、それに懲りて膾のように冷たい料理をわざわざ吹いてさまそうとする、つまり一度の失敗に懲りて、それ以後はばかばかしいまでに無用の注意をすることをいう。これは食い物に関しての格言であるが、異性関係においては、なかなか「羹」に懲りず、何度もやけどする人が多いようだ。 [#改ページ] 64 [#特大見出し] 涙《なみだ》 [#地付き]涙は雨のごとし   昔の日本人はよく泣いたようだ。平安時代の文学作品を読むと、登場人物が朝から晩までずっと泣いてばかりいるような感覚にとらわれる。  宮廷の物語や歌集に出てくる貴族たちは、男であろうが、女であろうが、花が散ったといっては泣き、恋人からの手紙がしばらくご無沙汰だといっては泣いていた。思うに、彼らはきっとひまをもてあましていたのだろう。それであんなに泣いてばかりいたにちがいない。  だいたい忙しければ、泣いてなどいる時間がないものだ。現代でも、男女の恋情を歌う演歌には涙が頻出《ひんしゆつ》する。これも「惚《ほ》れた惚れられた」の世界に生きる男女の心情を歌っているのだろうが、しかし現実には外へ仕事に出かけたり、家事をしなければいけないはずだから、現代人はそんなに泣き暮らしているばかりではない。 ◎水と目を組み合わせたもの[#「◎水と目を組み合わせたもの」はゴシック体] 「なみだ」を表す漢字として日本で常用される「涙」は中国の古い字書には見えず、比較的新しい時代に作られた漢字のようだ。中国の古典文献で「なみだ」を表す主要な字は、「涙」よりもむしろ「泣」と「涕」だった。なお現代中国語では「なみだ」を「泪」という漢字で表すが、「泪」は「涙」の俗字として使われてきた字である。≪水≫と≪目≫を組み合わせたこの漢字は、まことにわかりやすい。 「泣」は『説文解字』に「声無くして涕《なみだ》を出すを『泣』と曰《い》う」とあるように、しのび泣くことが本来の意味だった。それがのちに意味が広がって、「なみだ」の意味にも使われるようになった。 『詩経』(「燕燕」)の詩に「瞻望《せんぼう》すれども及ばず、泣涕《きゆうてい》は雨のごとし」とあり、また、英雄|項羽《こうう》(前二三二〜前二〇二)が愛姫《あいき》、虞美人《ぐびじん》と決別する有名なシーンで、項羽が詩を詠じたあとに虞美人が唱和したところ、「項王|泣《なみだ》数行下り、左右皆泣き、能《よ》く仰ぎ視るなし」と『史記《しき》』の「項羽本紀」は描写する。  なおこの文には「泣」の字が二度使われているが、前者が「なみだ」を意味する名詞で、後者は「泣く」という動詞である。  もう一つの「涕」も、もともと「なみだ」を表す字であった。こちらにも古い用例があり、やはり『詩経』に収められる「沢陂《たくは》」という詩に、「寤《さ》めても寐《ね》ても為すことなし、涕泗《ていし》 滂沱《ぼうだ》たり」とある。  ところでこの詩の注釈には、「目よりするを涕といい、鼻よりするを泗という」(目から出るのが「涕」、鼻から出るのが「泗」)とある。これによれば、ここで泣いている人物は涙と鼻水を「滂沱」、つまり大量に流して泣いていることになる。  文学作品や演歌には涙がいっぱい登場する。しかし涙と同時に出ることが多い鼻水については、ほとんどふれられることがない。だれか鼻水を流しながら泣く女を詠じた演歌を作ってくれないだろうか。受け狙いのカラオケではもってこいの曲になると思うのだが。 [#改ページ] 65 [#特大見出し] 也《なり》 [#地付き]也は女性そのもの   日本では性的なことがらを堂々と語るのは慎むべきこととされてきた。しかしそんなタブー意識はわりに新しい時代の産物であって、『古事記』など日本の古典には、性に関する直接的な表現がふんだんに登場する。 『日本霊異記《にほんりよういき》』(日本最古の仏教説話集)に見える話である。河内《かわち》の国のある経師《きようじ》(写経《しやきよう》をする職人)が寺で『法華経《ほけきよう》』を写していた。ある時にわかに大雨となった。たまたま参詣《さんけい》にきていた女が、経師が写経をしていたお堂で雨宿りをしたのだが、狭いお堂である。よからぬ気持ちを起こした経師が、突如「けしからぬ振る舞い」に及んだ。しかし経師が目的を達したところに雷が落ち、二人は手をつないだまま息たえた。げに仏罰とは恐ろしいものである。  話自体は仏教説話によく見られるタイプだが、さてこの「けしからぬ振る舞い」に関して、『霊異記』は具体的に「|※[#「門<牛」]《まら》の|※[#「門<也」]《つび》に入るに随《したが》ひて、手を携《たずさ》へて倶《とも》に死ぬ」と書いている。  ここに「※[#「門<牛」]」と「※[#「門<也」]」という漢字が見える。それぞれ文脈からあきらかなように、男と女の性器を意味する文字だが、さてこれはいったいどういう構造の漢字なのだろうか。  男のモノを意味する「※[#「門<牛」]」は『龍龕手鏡《りゆうがんしゆきよう》』という中国の字書にも登場する漢字で、≪牛≫はツノとの連想かと思われるが、いまひとつよくわからない。しかしもうひとつの「※[#「門<也」]」については、明快な構造分析が可能である。 ◎漢字をよく知る昔の日本人[#「◎漢字をよく知る昔の日本人」はゴシック体] 「※[#「門<也」]」は≪門≫と≪也≫とからなり、≪門≫は「玉門」(女性性器を意味する漢語)である。そしてもう一つの≪也≫は、女性性器を意味するそのものズバリの漢字であった。  中国最古の字書である『説文解字』に、「也は、女陰なり、象形」と記されている。つまり「也」とは女性性器の象形文字だと解釈されているのである。現在の字形ではどう眺めてもそうは見えないが、古い字形ではそうかもしれないと思われるので、興味のある方はご自身でお調べになるがよろしかろう。 「※[#「門<也」]」の要素として≪也≫が付いているのは上述の理由による。ところがこの字は中国の字書には見えず、日本人が作った漢字、いわゆる「国字」の中のひとつなのである。  とすれば、この字を作った日本人は、『説文解字』における「也」の解釈を知っていたということになる。 『説文解字』は大変に難しい書物で、中国でも専門の学者以外はまず読めない。だからこの書物の内容を知っており、しかもあらたに漢字を作る時にその知識を応用できるのは、漢字文化の神髄《しんずい》を理解していた人間にして初めて可能であった。こんな文字の使い方までできたのだから、昔の日本人は本当によく漢字を知っていたのである。 [#改ページ] 66 [#特大見出し] 肉《にく》 [#地付き]お月様と肉   関東地方のある街で、昼食のために食堂に飛びこんだ。小さな一膳飯屋《いちぜんめしや》だったのであまり凝ったものもできず、卓上にあったメニューを見て「他人|丼《どんぶり》」を注文した。しばらくしてできあがった料理を見て驚いた。それは豚肉を卵でとじたものだったのである。なるほど卵と豚でも「他人」には違いない。  私が育った関西で「肉」といえば牛肉を指すが、関東では豚を指すところがあるらしい。今の中国語でも単に「肉」といえば、それは豚肉を指すのがふつうである。しかし中国の肉食が古代から豚を中心としていたわけではなく、もともとは豚を含めて数種類の動物の肉が食卓にのぼっていた。  甲骨文字の中に※[#D(img¥D.jpg)]という字がある。これは動物の肉を切り取った形をかたどったと考えられる。これが後に「肉」と書かれるようになるのだが、しかしこの字はまた他の字を構成する要素として使われ、その時には字形の一部が省略されて≪月≫と書かれた。「胴」や「肌」という字の部首となっている≪月≫がそれで、だからこの部首を日本では「ニクヅキ」と呼んでいる。  このニクヅキの方の≪月≫は、「日月」の「月」、すなわち夜空に浮かぶ天体の※[#月(img¥tsuki.jpg)]とはもともと字形が微妙に異なっていて、「肉」を意味する≪月≫は真ん中の二本線を左右にくっつけて書き、「日月」の※[#月(img¥tsuki.jpg)]では二本線を左にくっつけ、右につけないのが正しいとされる。 ◎焼き肉につられて降臨する神様[#「◎焼き肉につられて降臨する神様」はゴシック体]  お月様と肉の間にそのような区別があるのは、肉を示す≪月≫にある二本の線は筋目を示すものだから左右にくっついており、お月様の※[#月(img¥tsuki.jpg)]は周期的に満ち欠けするから、片側にはくっつかないのだと説明される。ただしそうはいうものの、それははなはだ微妙な差異であって、字を書く時にそこまで注意してはいられない。だから実際にはほとんど区別されず、両者は同一の字形で書かれたようだ。 [#挿絵(img¥66.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  肉を示す≪月≫は、「祭」という字の構成要素にもなっている。「祭」は上半分に≪月≫(=肉)と≪又≫(=手)があり、下には≪示≫があるが、≪示≫とは空から祭祀《さいし》の場に降りてきた神が、地上にとどまる時によりどころとする小さな机の形である。だから「祭」という字は、手に持った肉を地上に舞い降りた神に捧げている形であり、このことから、古代の祭りでは必ず肉が供えられていたことがわかる。  この時代におこなわれた祭りでは、薪《たきぎ》で牛や豚、羊などの肉を焼き、そのかぐわしい匂いで空から神を招いた。つまりバーベキューのいい匂いを空に送って、それで神様を招いたというわけだ。焼き肉につられて降臨《こうりん》するというのだから、中国では人間だけでなく神様までも、大昔から相当に食い意地がはっておられたようである。 [#改ページ] 67 [#特大見出し] 年《ねん》 [#地付き]豊年満作   息子が生まれたら、名前を「年」とつけて「みのる」と読ませてやろう、とずっと前から考えていた。やがて息子が生まれたので、さっそくそう名づけようとしたところ、妻をはじめとする多くの親族から待ったがかかった。「誰にも読めない名前をつけられる子供がかわいそうだ」というのが、彼らの反対の理由である。  世間には難読・珍読とされる名前をもつ方がいて、その方たちは赤の他人から名前をからかわれるなど、あまり愉快ではない経験を随所でしておられる。そんな現場を私も実際に見たことがあるので、なるほどと納得して素直に引き下がった。 「年」を「みのり、みのる」と読ませるのは、現代なら難読名と分類されるだろう。しかしそれは決して奇矯《ききよう》な読みではなく、「年」とはもともと穀物の豊作を意味する漢字だった。むしろあとからその字に備わった year という意味に、軒を貸して母屋《おもや》を取られる格好になったのである。 [#挿絵(img¥67.jpg、横120×縦160、上寄せ)] 「年」は甲骨文字や金文《きんぶん》などでは、豊かに実った穀物を人間が背負っている形を示しており、本来は「農作物の豊かな収穫」という意味で使われる文字だった。これがやがて「一年」という時間の単位を表すようになったのは、もちろん農作物の収穫が年に一度だけのことだからである。  ちなみに甲骨文字が発見される地域、現在の地名でいえば河南《かなん》省|安陽《あんよう》市のあたりでは、かつては米がとれなかった。したがってここに登場する穀物は、おそらくムギだと考えられる。 ◎豊作であること[#「◎豊作であること」はゴシック体]  ここ数年、外国からの食糧の輸入をめぐる論議が盛んである。異常気象による米の凶作でタイ米などが緊急輸入され、それをめぐって世間が大騒ぎしたのはもう数年前になるが、しかし私の記憶ではまだまだ新しい事柄に属している。  これだけ農業の技術革新が進んだ現代においても、その年の穀物の出来ばえは、夏の気温や降水量などの自然条件に大きく左右される。ましてや病虫害|駆除《くじよ》のための農薬や化学肥料などまったくなかった古代では、人々はたえず真摯《しんし》な努力を続け、それが年に一度の豊かな実りにつながるようにとひたすら神に祈るほかなかった。  その年が豊作であるかどうかは、国家の安定と平和な生活に直接かかわる、きわめて大きな問題だった。そんな重要なテーマを内包する漢字を自らの名前として持った子は、きっと大きく立派に育っていくだろうに、と私はその「年=みのり」命名プランにいまだに未練を持っている。 [#改ページ] 68 [#特大見出し] 野《の》 [#地付き]野合《やごう》の産物   私が子供の頃は、学校から帰るとカバンを放り出し、すぐに野球をしに行ったものだ。当時は東京や大阪のような大都会でさえ、街の真ん中に比較的ゆったりとした空き地があって、日が暮れるまで子供たちがそこで遊んでいてもしかられなかった。当時の男の子たちのほぼ全員が野球ファンだったのは、おそらく野球がもっとも身近な遊びだったからだ。  最近の子供は野球にそれほど興味を持たなくなった。街に空き地がなくなり、子供が塾通いに追われるようになって、野球ファンの子供が急速に減ったのは、実は当然のことなのだ。  だがかつての子供がそのまま大きくなったような大人は、野球の季節がくるとそわそわして落ち着かない。オリンピックやサッカーのワールドカップという超ビッグイベントがあれば、野球も少しは色あせて感じられるが、それでもセンバツとプロ野球の開幕は、今や日本の春に欠かせない風物詩となっていて、人々の話題にのぼるようだ。  英語の「ベースボール」を「野球」としたのはなかなか巧《うま》い翻訳だったと思う。「野」という字には広々とした語感があって、それがこのグラウンドの開放感と実にぴったりとあっている。 「野」という字は≪里≫と≪予≫からできているが、≪予≫は音を表すだけの要素である。意味としての重心は≪里≫の方にあって、その≪里≫は「田んぼ」を意味する≪田≫と、神をまつる社《やしろ》を指す≪土≫とからできている。つまり≪里≫とは大地の神をまつった社の周囲にある田畑の意であり、「野」もそれと同じ意味の文字である。  土地の神をまつる社は集落から遠く離れた所にあったから、それで「野」にも僻遠《へきえん》の地という意味ができ、さらには非文化的という意味になって、「粗野」とか「野蛮」とかいう単語ができた。 ◎教祖様の出生[#「◎教祖様の出生」はゴシック体] 「野」が悪い意味で使われている単語の一つに「野合《やごう》」がある。これは普通には、正式な媒酌人を立てるなどの作法によらず、惚れあった男女が勝手にひっつくこと、と解釈されている。そしてこのことばが有名になっているのは、孔子が「野合」によって結ばれた夫婦のあいだに生まれた子供であることによる。  社会を円滑に治めるためにはマナーの整備が肝要であると説いた孔子自身が、礼法を無視した結婚で生まれたとは皮肉な話だが、のちの儒学者もやはり困ったのか、いろんな説を出して、教祖様の出生についての弁護を試みている。  中でも面白いのは元《げん》時代(一二七一〜一三六八)の『玉堂嘉話《ぎよくどうかわ》』という随筆に見えるもので、それによれば男は六十四歳で、女は四十九歳で、それぞれ性的能力の限界を迎える。そしてこの年齢をすぎてから結婚することが「野合」である、とこの本の著者はいう。孔子の場合は父親が六十四歳をすぎてから若い娘を娶《めと》ったので「野合」になるのだそうだ。もしもこれが事実ならば、孔子の父はとんでもない人物で、今ならさしずめ「淫行オヤジ」ということになるかもしれない。 [#改ページ] 69 [#特大見出し] 喉《のど》 [#地付き]咽喉《いんこう》の世相   日本語の構文解析に関する技術が進んだのか、最近のパソコンソフトに組み込まれているかな漢字変換用の「辞書」はずいぶんかしこくなった。おかげでかなを変換したところ奇妙|奇天烈《きてれつ》な文字の並びが画面に現れるということがだいぶ少なくなったが、しばらく前までは、パソコン、ワープロでのかな漢字変換ミスで、ずいぶん笑わせてもらったものだった。  雑文を書いていて「単身赴任」という表現を使おうと思ったら、画面では「単身不妊」となっていた。なるほど一人では妊娠するはずがない、と妙に納得した。知り合いの社会科の先生が地理の試験問題を作っている時に「熱帯海洋」と書こうとすると、「練った胃潰瘍《いかいよう》」と変換された。大笑いするとともに、強烈に痛そうなイメージを抱《いだ》いたという。  私が経験した変換ミスの一つに、「耳鼻淫行科」がある。いうまでもなく「耳鼻|咽喉《いんこう》科」の誤りであるが、そのころ使っていた某社のワープロ専用機では、「咽喉」という難しい医学用語より、「淫行」という語彙《ごい》が先に出るように仕組まれていたのである。ちょうど「淫行」に関する事例が新聞紙面に載りだして間もない時期であった。ワープロの辞書もやはり世相を反映するもののようだ。 ◎「咽」も「喉」も「のど」[#「◎「咽」も「喉」も「のど」」はゴシック体]  人の「のど」を漢語では「咽喉」というが、「咽」も「喉」もそれぞれ単独で「のど」を意味する文字であり、それぞれの漢字が表す意味にはほとんど違いがない。文字の構造も、意味を表す≪口≫と、それぞれの音を表す≪因≫と≪侯≫を左右に並べた形声文字である。  ただ「咽」は名詞として「のど」を表すほかに、動詞として「飲みこむ」や「声がつまる」などの意味に使われるが、「喉」は「のど」を意味する名詞としてしか使われないのが、二字の違いといえる。 「のど」は呼吸と食物摂取を担当する、非常に重要な器官である。またそこを傷つければそのまま命を落とすことにつながることから、転じて非常に重要な機関や場所、あるいはもっとも堅固な要塞《ようさい》、または急所などのたとえに使われる。  それ以外に「のど」がもつ重要な機能として、発声という働きがある。特に歌を歌う時の発声と技量に関しては、「のど」の質が問題となる。中国語で「歌が上手である」ことをいうには数種類の表現があるが、その一つに「好※[#「口+桑」、unicode55d3]音」というのがある。直訳すれば「よいのどの音」となるから、歌に関して「のど」の善し悪しを論じるのは日本も中国も同じである。  ただし「のど自慢大会」という言い方は中国にはない。「のど自慢」を中国語に訳せば、「歌詠比賽大会」とでもなるだろうか(「比賽」は競争の意)。のど自慢を「咽喉比賽大会」と訳しても中国人には通じない。だが「淫行比賽大会」ならば、きっと日本人と優勝を争う強敵が出現することだろう。 [#改ページ] 70 [#特大見出し] 歯《は》 [#地付き]虫歯美人   男の老化はまず歯から始まって、それから目にきたあとに、さて三番目はいったい何だったか。  それはともかくとして、先日のこと、真夜中に歯が突然痛みだした。翌朝すぐに歯科医に駆けこんで、なんとかことなきを得たのだが、歯の痛みというのは大人でも泣き出したくなるほどに辛いもので、その夜はほとんど眠れなかった。  私の血筋は、どうも遺伝子の関係があるのだろうと思うが、目は非常によく、その分だけ(?)歯が悪い。子供たちも小学校に入ったばかりの頃は、よく学校の定期歯科検診を受けたあと、「う歯何本」と書かれた診断結果を持って帰ってきた。  歯科医は虫歯のことを「う歯」という。この「う歯」を漢字で書くと、「齲歯」という大変に難しい字になる。江戸時代までの医者は漢方医だから、同時に儒学者であった。文明開化で近代西洋医学が入ってきた時に、西洋の医学用語を彼ら儒学者たちが日本語に翻訳したものだから、医学用語にはやたらと難しい漢字が多い。イボができたので医者に行くと「ウイルス性の疣贅《ゆうぜい》ですね」といわれてびっくりしたことがある。  だが中には漢字の間違いもある。「齲歯」を「ウシ」と読むのも実は間違いなのであり、「齲」の正しい音読みは「ク」である。だから本来は「クシ」と読むべきであって、わざわざ難しいことばを使いながら読み方を間違うくらいなら、最初から「虫歯」といえばいいではないか、と思うのだが、さてどんなものだろう。  虫歯はできるだけ早く治療しておくに限る。深夜に歯痛に苦しみながら、私は虫歯をここまで放っておいた自分の非を責めたが、しかし世間は広いもので、過去の中国には虫歯を自分の魅力のひとつとしていた人物もいた。 ◎流行《はや》りの笑顔とは[#「◎流行《はや》りの笑顔とは」はゴシック体]  後漢《ごかん》の大将軍として専横《せんおう》をきわめた梁冀《りようき》(?〜一五九)には、孫寿《そんじゆ》という名の妻がいた。彼女は美貌の持ち主であり、さらに独特の媚態《びたい》を演出することができたという。  伝記に「善《よ》く妖態《ようたい》を為す」と記される孫寿の魅惑のポーズとは、「愁眉《しゆうび》」を施《ほどこ》し、「折腰歩《せつようほ》」で歩き、そして「齲歯笑《くししよう》」で笑うことだった。「愁眉」とは眉を細くクネクネと描くこと、「折腰歩」とは「足 体の下にあらず」という記述から考えれば、モンロー・ウォークのような歩き方だったのだろう。  そして「齲歯笑」は注釈によると、虫歯が痛んで憂鬱《ゆううつ》な時のような感じで笑うことだという。なんとも不思議な笑顔だが、しかし彼女のこのような姿態が、やがて首都|洛陽《らくよう》の女性たちの間に大流行したという。  試みに想像されたい。最近のコギャルのように眉を細く描いた女性が、歯痛に苦しむかのようにほほえみながら、腰を大きく左右に振って歩いているのを。そんなのにもし出あったら、私ならせっかく治まった歯痛が再発することだろう。 [#改ページ] 71 [#特大見出し] 蠅《はえ》 [#地付き]五月の蠅   漢字の検定試験を受験する人がずいぶん多いらしい。それも驚くべきことに若い人が多いそうで、おそらくその関係なのだろう、若者がよく利用するコンビニなどに、難読や珍読の熟語ばかりを集めたパズル雑誌が置かれていたりする。週刊誌にも漢字の難読クイズがよく掲載されている。難読の漢字は、他人が知らないことに対して「蘊蓄《うんちく》」(これも難読字である)を傾けるための絶好の素材なのだろう。  この種の難読の問題で、よく読みを問われるものの一つに「五月蠅」がある。正解はもちろん「うるさい」だが、「五月蠅」には「うるさい」のほかに「さばえ」という読みがあることは案外知られていない。「さ」は「さつき」の「さ」で、五月の意。これに「〜のように」という意味の接尾語「なす」をつけた「さばえなす」は、「騒ぐ」とか「荒ぶる」、あるいは「沸く」にかかる枕詞《まくらことば》として使われた。今ならさしずめ、大騒ぎするゴールデンウィークにかかる枕詞とでもいうところか。  ここでいう「五月」はもちろん陰暦でのそれだから、実際には今の六月前後になる。近頃の日本ではめっきり少なくなったものの、その頃に飛び回るハエはほんとうに「うるさい」。「五月蠅」とはまったく書き得て妙だと思う。 ◎腹のふくれた虫[#「◎腹のふくれた虫」はゴシック体] 「蠅」という漢字は≪虫≫と≪黽≫(「ボウ」と読む)とからできている。この≪黽≫はカエルを意味する文字なのだが、他の文字と組み合わされると、しばしばカエル以外の動物をも表すことがある。  今から千九百年近く前にできた『説文解字』によれば、≪黽≫のつく動物には「丸い」か「大きい」という共通点があって、たとえば≪敝≫と≪黽≫からなる「鼈」はスッポンだし、≪敖≫と≪黽≫からなる「鼇」は大亀の一種である。ほとんど使われない漢字だが、≪単≫と≪黽≫を組み合わせれば、大きなワニを意味する字となる。  こう考えてくれば、ハエのように小さな虫に≪黽≫がついているのは不思議なのだが、『説文解字』の説明によれば、それはハエの腹が、頭など他の部位に比べて異様に大きくふくれているからだという。 「ブンブンうるさい青蠅が、垣根にとまっている。  でも殿様、あの蠅のような奴らの讒言《ざんげん》を、どうかお聞きめさるな」  中国最古の詩集『詩経』にある、「青蠅」という詩の冒頭の一節である。詩に出てくるハエは、権力者の前で白を黒に、あるいは黒を白に、自由にいいくるめるゴマスリの従臣の象徴である。  食品の上などをうるさく飛び回るハエは、中国でも日本でもずいぶん減った。しかし社会の嫌われ者である「ハエ」が一向に減らないのは困ったものである。 [#改ページ] 72 [#特大見出し] 莫《ばく》 [#地付き]莫と暮   戦後の国語改革で日本の近代化を阻害する元凶《げんきよう》とされ、一部の「識者」からは諸悪の根源のように忌《い》み嫌われた漢字が、近頃では多くの高校生や大学生によって熱心に学ばれている。ファッショナブルな若者をターゲットとするナウい雑誌までもが、漢字をテーマにした特集を組んだりしているのを見ると、まったく隔世《かくせい》の感にとらわれる。 「漢字ブーム」はもちろん出版の方面にも及んでおり、漢字の熟語で難読や珍読とされるものなどを集め、面白おかしく解説した文庫本などがたくさん出版されている。失礼ながらいずれもあまり変わりばえしない内容とお見受けするが、それにもかかわらず、結構売れているらしい。  このような漢字の難読語としてしばしば話題とされるもののひとつに、「莫大小」がある。これはかつて町工場や商店の名前などによく使われていたものなので、年配の方ならよくご存じだろうが、この三文字で「メリヤス」と読む。しかしそれでは「莫大小」と書いてなぜ「メリヤス」と読むのか、その理由を知っている方は案外少ないようだ。  繊維製品としてのメリヤスの最大の特徴は伸縮性と柔軟性に富むことであり、一人一人のサイズに合わせて絹や木綿を縫って作ったそれまでのものに比べれば、メリヤスの肌着はある程度伸び縮みする。腰のまわりにたっぷり脂肪をつけてしまったご婦人は、それまで着用していた絹のパンツを捨てざるを得ないが、しかしメリヤスのものならば、ある程度までは伸びるから、少しくらいなら融通がきく。いわばそれはLサイズもSサイズもなく、「大小の区別が莫《な》い」ともいえるものなのである。 ◎日没を惜しんだか[#「◎日没を惜しんだか」はゴシック体]  ちなみにここで使われている「莫」は、漢文では「無」や「勿」などと同様に、「……なし」と訓じられる文字である。それを知らないと、このことばの構造がまったくわからない。戦後の日本の学校では漢文をほとんど教えなくなったから、それとともに「莫大小」の意味がわかる人が少なくなった。  だが「莫」も最初からそのような抽象的な意味を表すために作られたわけではない。 [#挿絵(img¥72.jpg、横120×縦200、上寄せ)]  この字は上下二つの≪艸≫(=草)と中央にある≪日≫(=太陽)とからできており、本来は草むらの中に太陽が沈むこと、つまり「夕暮れ」という意味を表していた。  それがやがて、ほとんどの場合「……なし」という意味で使われるようになったので、「莫」本来の意味を示すために、「莫」にさらに≪日≫をつけ加えた文字があらたに作られた。それが「暮」であり、だから「暮」には≪日≫が二つあるという妙なことになってしまった。もしかしたら、ただでさえあわただしい日暮れや年の暮れに、もっともっと時間が欲しいという意識がそこに反映されたのかもしれない。 [#改ページ] 73 [#特大見出し] 鼻《はな》 [#地付き]鼻の頭を押さえる   人間の「はな」を意味する漢字で、最初に作られたのは「自」だった。「自」は鼻の頭をかたどった象形文字である。毎度引用する『説文解字』にも、「自は鼻なり、鼻の形にかたどる」とある。 「自」は最初「鼻の頭」という意味を表す漢字だった。それが、人が身振り手振りで自分を表す時に、人差し指を鼻の頭につきたてるしぐさをすることから、鼻の頭であった「自」がマイセルフ、つまり「自分」という意味を表すようになった。  こうして「自」が「自分」の意味で使われるのが主流になったので、もともとの≪自≫に「ヒ」という音を表す≪※[#「田/一/(ノ+縦棒)、unicode7540]≫を加えた「鼻」という字があらたに作られ、これで「はな」を表すようになった、というしだいである。  私はつい最近まで、「自」という漢字の意味の拡大に関する話になんの疑問ももたず、じっさい講義でも自信をもって、学生にそのように説明してきた。ところがその自信が、あることを契機として少しぐらつきだした。  イタリアに行った時のことである。現地のある大学を訪問して、そこで日本語を教えておられる教授にお目にかかった。その先生は若い頃に日本に数年間留学された経験があり、さらには日本人女性と結婚されていることもあって、日本人と変わらないほどに流暢《りゆうちよう》な日本語を話される。もちろん日本人の食べ物の嗜好《しこう》や生活習慣などについても、驚くほど精通しておられる。 ◎東洋人の鼻はなぜ低い?[#「◎東洋人の鼻はなぜ低い?」はゴシック体]  ところがそれだけ日本のことを知っている人が、自分のことを話す時にはいつも、手のひらを胸にあてながら「私はね……」と語るのである。おや? もしかしたら……と気づいて、自分を指す時に鼻の頭を押さえるような習慣はこちら(イタリア)にはないのかと尋ねたところ、以下のような答えが返ってきた。  家内(日本人)が時々そのような動作をしているので、自分にはその意味がわかる。しかしそれが「マイセルフ」の意味であることは、普通のヨーロッパの人間にはたぶんわからないだろう。ヨーロッパの人間が自分を指す時には、手のひらで胸を押さえるのが一般的である。 [#挿絵(img¥73.jpg、横120×縦160、上寄せ)] 「わたし?」といいながら鼻の頭を押さえるのは、どうやら世界共通のしぐさではないようだ。しかし甲骨文字の字形などを見ると、「自」が鼻の頭の象形であることはほとんど確実だと思われる。もしかしたら、鼻の頭を押さえて自分を表すのは、東洋だけでおこなわれるしぐさなのだろうか。もしそうであるならば、東洋人の低い鼻と西洋人の高い鉤鼻《かぎはな》のちがいがそこに影響しているのではないだろうか。この次ヨーロッパに行く機会があれば、この仮説(?)をじっくり検証してくることとしよう。 [#改ページ] 74 [#特大見出し] 母《はは》 [#地付き]母と乳房   親しい友人数人で酒を飲みながらの座興として、各自が仕事上で専門とすることがらをネタに、ひとつお互いに啓発しあおうではないか、ということになった。まずはじめに医者が「妻の乳ガンを見つける方法」を語り、自動車販売業に従事する者は「新車の上手な値切り方」を伝授した。やがて私に順番が回ってきたので、私は「文字の作り方」(なんと面白くないテーマであろう)について話した。  漢字の作り方の基本には象形文字がある。象形文字とは要するに絵文字である。しかしある概念を表現する文字を作る時に、いったいどのようなものを素材として使うか、つまり何の絵を描くかということに関して、古代人と現代人の思考回路は決して同じではない。  たとえば「女」は、人間がひざまずき、両手を前に組み合わせている形をかたどった文字である。なぜひざまずいている人間が女なのか、と問われたら、その時代には女が男に隷属《れいぞく》させられていたからだ、と答えるほかはない。つまりそこには明らかな「男尊女卑」の思想が反映されているのだ。  現代の人間がもし「女」という意味を表す象形文字を作るとすれば、決してそのような姿の人物を描こうとはしないだろう。アルコールの回った友人の一人は、「そりゃもちろん、アソコの絵を描くに決まってるじゃないか」と声高に断言した。あまりにも安易で、かつ直截《ちよくせつ》的な発想だとは思うが、しかしもしも上手に描けるのなら、それがもっともわかりやすい「女」の意味になることはうたがいない。  実際、古代メソポタミアで使われた楔形《くさびがた》文字で「女」を表す文字は、女性性器を正面から見た形を描いていると考えられる。 ◎「母」だけのシンボルか?[#「◎「母」だけのシンボルか?」はゴシック体]  ともあれ「女」という漢字を改めて作り直すとしたら、ひざまずいた人の形を使うことなど絶対にありえない。しかし同じ「女」であっても、「母」については、今でも古代人の発想がそのまま通用するにちがいない。 [#挿絵(img¥74.jpg、横120×縦200、上寄せ)] 「母」という字は、手を前に組んでひざまずいた人(=「女」)の中に点を二つ加えた形である。この二つの点はいうまでもなく乳房を表すもので、今の「母」という楷書《かいしよ》の字形でも、乳房を表す二つの点がちゃんとそのまま残っている。  古代中国では、授乳という行為があるか否か0で「女」と「母」を区別した。その区別は古今東西、いずこの国でも通用する。かつて月亭可朝《つきていかちよう》という関西の噺家《はなしか》が「ボインは赤ちゃんのためにあるんやでー」とうたった(「嘆きのボイン」という題)。ずいぶんふざけた歌だったが、しかしそこには実に永遠の真理が宿されていたのである。 [#改ページ] 75 [#特大見出し] 省《はぶく》 [#地付き]故郷に帰り反省する   ある年の夏、遠くからの来客を迎えるために近くの空港へ出かけたところ、いたるところ人であふれかえっていた。おりしも夏休みがまさにまっさかりの季節で、空港は両手いっぱいの荷物をかかえた若者や家族連れでごったがえしていた。鉄道の駅だって、きっと同じことだっただろう。  ここ数年は、マスコミの報道によれば、長引く不況のために海外旅行に出かける人が以前よりも減っているらしいが、それでもしかし、この時期にはあいかわらず「民族の大移動」が展開される。先年の三月中旬に仕事でヨーロッパへ出かけた時も、飛行機の中は旅行を楽しむ日本人の団体でいっぱいだった。私の隣にすわった女性は、友人たちとの卒業旅行で、これからローマとパリを回るという。目的は観光と食べ歩きであり、最大の目的はなんとかいうブランドのバッグを買うことだという。  いったいどこが不況なのだ、とその時は不思議に思ったものだ。不況と旅行とはきっと別物なのだろう。いや不況であればこそ、日頃は倹約し、たまの旅行でパッとお金を使うということなのだろうか。不況であっても、盆や正月にターミナルが混雑するのはあいかわらずである。  大都会大阪のど真ん中に生まれ育ち、今もその近くに暮らしている私には、帰るべき故郷がない。だから私には帰省の経験がなく、ニュースなどで帰省ラッシュのありさまを見れば、さぞ大変だろうなと同情する。しかしそれでも、ごく短い期間とはいえ、久しぶりに故郷で両親や親戚、あるいは友人たちと語り合うのはさぞかし楽しいことだろうとも思う。久しぶりの故郷はそれぞれの人にとっての玉手箱であり、その中にはいろいろ楽しいことが詰まっているのだろう。 ◎自分を見つめる目[#「◎自分を見つめる目」はゴシック体]  しかし玉手箱の中の宝物だけを追いかけて、ひたすら遊びほうけてはいけない。  帰省の「省」は、反省の「省」なのである。帰省の本来の意味は、故郷に帰り、日頃の自分の振る舞いや活動を見つめ直し、それを反省することである。 [#挿絵(img¥75.jpg、横120×縦160、上寄せ)] 「省」の古い字形は、自分を見つめるための大きな≪目≫と、セイという音を表す≪生≫(これがやがて≪少≫に変わった)とからできている。「帰省」のために使われた多くの時間とお金が、無駄でなかったかどうかは、ひとえに「省」の中心にある大きな≪目≫を存分に活用できたかいなかにかかっているのだ。それでこそ大枚をはたいた甲斐があるというものだ。 [#改ページ] 76 [#特大見出し] 春《はる》 [#地付き]春はエッチ   電車に乗っていると、途中の駅で数人の男子高校生がどやどやと乗りこんできた。私が座っているすぐ前に立ち、傍若無人《ぼうじやくぶじん》に大きな声で話をしだしたので、いやでも彼らの話が耳に入ってくる。  やがてそのうちの一人が、次のように言った。 「つい最近知ったんだけどよぉ、アダルトという英語は、『大人の』という意味の形容詞だったんだな。俺てっきり『エッチな』という意味だと思っていたよ」  なるほどことばの意味とはこのようにしてひとり歩きするものなのか、と妙に納得させられた。adult という外来語の、今の日本での使われ方から意味を帰納《きのう》するならば、この高校生はむしろ正しく理解しているというべきであろう。  今風にいう「アダルト雑誌」を、一昔前は「春本《しゆんぽん》」と呼んだ。「春本」にはたいてい「春画」がついていたし、誰だって「思春期」の頃にはこの種のいかがわしい本を眺めて、「春情」をもよおした経験があるだろう。  このように「春」という字を使った単語をいくつか並べ、くだんの高校生に「春」という字の意味を尋ねるならば、彼は確実に、それは「エッチな」という意味である、とたちどころに答えることだろう。  改めていうまでもなく、「春」は季節の名前をいう漢字で、そこにはもともと「猥褻《わいせつ》な」とか「いやらしい」という意味などまったくない。しかしこの字がそのような意味で使われるようになったのは、本来の意味から派生した結果なのである。 ◎男は秋に求める[#「◎男は秋に求める」はゴシック体]  古代中国の哲学では、季節の変化を陰と陽の「気」の増減消長で説明した。「陰」の気が一〇〇パーセントになっている冬から、しだいに「陽」の気が盛んになってくると春になり、やがて陽の気が一〇〇パーセントになって夏となる。秋から冬にかけては、これとまったく反対のことがおこる。そしてこの陽と陰は、男と女を象徴することもあった。もちろん男が陽で、女が陰である。  中国最古の詩集であり、儒学の経典ともされた『詩経』の「七月」という詩に「女の心傷み悲しむ」という句があり、それに対して後漢《ごかん》のある学者が、「春には女は陽の気に感じて男を思い、秋には男は陰の気に感じて女を思う」と注釈をつけている。陰の象徴である女は、春に自然界の陽の気が盛んになりだすのに連動して、陽すなわち男を求め、陽である男は、秋になって自然界の陰気が増えだすにつれて、陰すなわち女を求めるというのだ。 「春」に「エッチ」という意味があるのは、女が春に男を求めることから派生した結果なのである。であるならば、「秋」にも当然「エッチ」という意味があるべきだ。男女同権の現在、男が性をひさぐことをこれからは「売秋」と呼ぶことにすればいかがだろうか。 [#改ページ] 77 [#特大見出し] 比《ひ》 [#地付き]比は男女の向き合い方  「ジューン・ブライド」(六月の花嫁)ということばがあるから、西洋では六月が結婚式に適した季節とされるようだ。そしてなんでも西洋のしきたりがかっこいいと思うのだろう、日本でも六月に結婚式を挙行する人が結構たくさんいる。  冬が厳しく、夏が短いヨーロッパでは、六月は快適な季節である。だが日本の六月は雨にふりこめられ、なにかと気の晴れない季節である。こんな時に結婚式に招かれれば、正直いって迷惑に感じられることもある。しかも最近では結婚式が豪華になり、見ているのが気恥ずかしくなるほど派手な演出までおこなわれるのでなおさらだ。  特に結婚式に招かれて、迷惑をこうむるのが披露宴の時刻である。朝早いのはかなわないし、といってお開きが遅くなるのも翌日の仕事にさしつかえる。午後の三時くらいの披露宴なら、ちょうど昼食と夕食の間になるために、腹具合の調節が難しい。なかなか難しいものだ。 ◎昔の結婚式[#「◎昔の結婚式」はゴシック体]  昔の結婚式は、必ず夕暮れからおこなわれるものと決まっていた。「結婚」を意味する「昏」の古い字形は≪人≫と≪日≫とからできている。つまり太陽が人間の高さくらいのところにまで下りてくる時刻という意味で、そこからこの字はもともと夕暮れの時刻を表していた。 [#挿絵(img¥77_01.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  婚礼の儀式を夕方から夜にかけておこなう習慣は、中国だけでなく日本にもあった。邪魔者は早々に姿を消すべきであることをいう「仲人は宵《よい》のうち」は、結婚式が始まり、三三九度の儀式が終わってしまえばもう仲人は無用の邪魔者だから、いつまでも長居せずに早々に退散するべきであるということから出た表現である。  その時代にはもちろん写真はなかったから、新郎新婦の二人が結婚式の当日に初めて顔を合わせるということも、決して珍しくはなかった。  何世紀も前の中国にいたある男、めでたく話がまとまって結婚することになったのだが、花嫁はそれまで一度も会ったことがない女性だった。  新婚さんを冷やかすのはどこの国でも同じで、初夜が済んだ翌日、悪友たちがさっそく「おいゆうべはどうだった?」とからかいはじめた。その揶揄《やゆ》に対して、くだんの男は地面に「北」という字を書いた。「北」とは二人の人間が背中をむけあっている形を示す字である。  翌日悪友たちがまた同じ質問をした。それに対して、男は今度は「比」という字を書いた。つまり男か女かのどちらかが向きを変えたわけだ。  そして三日目、さらに同じ質問を発する悪友たちに対して、男はニヤニヤしながら「臼」という字を書いた、というのである。 [#挿絵(img¥77_02.jpg、横120×縦450、上寄せ)]  さすがは文字の国、まことによくできたジョークだと思う。 [#改ページ] 78 [#特大見出し] 美《び》 [#地付き]美女との出会い   日本では長い間の仏教信仰によって動物の肉をほとんど食べなかったから、肉食の歴史もそれほど長くはない。明治維新以後、「文明開化」のスローガンとともに肉食がしだいに普及したものの、それでも食用に供されるのはほとんどが牛か豚、それにニワトリで、日本人は羊の肉をそれほど食べない。実際、北海道など一部の地域を除いては、ふつうのスーパーや食肉販売店ではほとんどマトンを売っていない。  しかし世界的な視野で考えれば、羊は食用にされる動物の代表といっていいほどに、各地でよく食べられている。また羊から取るミルク(「羊乳」とでもいうのだろうか)を加工したチーズなども、ヨーロッパでは食料品店でよく見かける。  羊は人間に従順で、繁殖力も旺盛だから、牧畜に適した動物である。中国でも非常に古い時代から、羊の放牧がおこなわれていた。『詩経』に収められる「君子于役《くんしうえき》」という詩は、伝統的には仕事で長く旅に出ている夫の留守を守る妻の歌と解釈されているが、その一節に「鶏は塒《ねぐら》に棲《す》み、日の夕べには羊と牛は下り来たる」とうたう。ここに登場する羊と牛は、夕暮れになるとちゃんと山の麓《ふもと》に下りてくるというのだから野生ではない。おそらく放牧されていたのだろう。  戦国時代には街中にすでに羊の肉を販売する店があったらしい。『春秋左氏伝《しゆんじゆうさしでん》』という歴史書の中に、伯有《はくゆう》という人物が「羊肆《ようし》」で死んだので、その友人が遺骸に着せる衣服をもっていって号泣したという話がある。ここに「羊肆」ということばが見える。「書肆」といえば書店のことだから、「羊肆」というのもおそらく羊の肉を販売していた店なのだろう。  さらに古い時代では、羊は祭祀《さいし》の犠牲《いけにえ》としてもさかんに使われた。犠牲とされる動物は、もっとも重要な祭祀では牛を使ったようだが、牛は農耕に使う貴重な役畜でもあったのでそんなにたくさんは使えない。だから通常の祭祀では、繁殖力の強い羊を使うことが多かったようだ。 ◎羊から生まれた「美」[#「◎羊から生まれた「美」」はゴシック体]  神に捧《ささ》げる犠牲は、もちろんより大きなものであることが望ましい。犠牲が大きければ大きいほど神は喜ばれたし、祭りに参加した者たちが後で食べる「おさがり」も、それだけ多くなる。そこで祭る者たちはなるべく大きな羊を選んでお供えした。そこで≪羊≫と≪大≫を組み合わせた「美」という字で、「りっぱなもの」という意味を表した。それがやがて「うつくしい」とか「すばらしい」という意味を表すようになった。  中国には今も宗教的戒律や生活習慣によって豚肉を食べない人がたくさんいる。だからどんなに小さな街にでも、羊肉しか扱わない店が必ずある。そして旅行していて驚くことには、どんな小さな街でもはっと驚くほどの美人に出くわす。日本では残念ながらそういう経験をあまりもたない。もしかしたら美女の有無も、羊を食べる伝統によるのだろうか。 [#改ページ] 79 [#特大見出し] 髭《ひげ》 [#地付き]現代の髭づら   近頃では男性でも、理髪店ではなく美容院で髪を手入れする人が多いらしい。美容院とは女性用の床屋さんと思っていた私は、はなはだしい時代遅れだと家内に笑われた。  理髪店で洗髪してもらう時には前かがみになるが、美容院では椅子を後ろに倒し、仰向《あおむ》きになるそうだ。それが理髪店と美容院のちがいだと理解していたら、最近の理髪店では仰向きになって洗髪することもあるらしい。  理髪店と美容院とのもっとも大きな違いは、洗髪の時の頭の向きなんかではなく、理髪師はかみそりを使えるが、美容師はかみそりが使えない、という点にあるらしい。つまり美容院では髭を剃《そ》ってもらえないわけだ。あごのひげくらいは自分で剃れるとしても、もみあげとか襟足《えりあし》などは自分では剃りにくい。美容院を利用する男性は、いったいどのようにしているのだろう。  現在は「ひげ」とかなで書くのが普通になったが、以前は「鬚」という難しい漢字を使った。これは≪髟≫と≪須≫とを組み合わせた漢字であるが、ここに使われている≪須≫は、もともとそれだけでひげを表す漢字だった。  例によって『説文解字』だが、『説文解字』は「須」について「頤《あご》の下の毛なり」と記す。「頤」はあごの意だから、「須」は「あごひげ」が本来の意味であった。前漢の歴史を述べた『漢書《かんじよ》』(高帝紀上)に、漢の高祖《こうそ》(劉邦《りゆうほう》)の容貌を述べて「美しき須髯《しゆぜん》なり」といい、その注釈に「頤に在るを須と曰《い》い、頬《ほお》に在るを髯と曰う」とある。  しかし「須」が主に「すべからく」とか「必須《ひつす》」という意味に使われるようになったので、新たに≪髟≫を加えて「鬚」という字を作った、というわけだ。 ◎権力者の髭[#「◎権力者の髭」はゴシック体]  現代の中国では、ひげを生やしている人が比較的少ない。しかし古代に描かれた有名人の肖像画を見ると、ひげを生やしていることが多い。よく知られた例では、『三国志《さんごくし》』の勇将|関羽《かんう》がひげの濃い人物であり、諸葛孔明《しよかつこうめい》(一八一〜二三四)は彼を単に「ひげ」というあだ名で呼んでいたという。また宋《そう》代を代表する詩人である蘇軾《そしよく》(東坡《とうば》、一〇三六〜一一〇一)もひげが濃かったので、他人から「髯蘇」(ひげづらの蘇)と呼ばれたという。  高い地位にいた者はだいたいひげを生やしていた。そこから、権力者に媚《こ》びへつらうことを、他人のひげの塵《ちり》を払うことになぞらえて「払鬚《ふつしゆ》」というようにもなった。  私の知人にも立派なひげを蓄《たくわ》えている人が何人かいる。彼らはいずれも大学の教官ではあるが、現代の学生は教授に媚びても大したメリットがないと知っているからか、彼らのひげの塵を払ったりはしない。だがそもそも他人が自分のあごのところに手を持ってくること自体、あまり気持ちのいいことではない。「払鬚」ということばが使われなくなったのを、現代のひげづらは喜ぶべきであろう。 [#改ページ] 80 [#特大見出し] 羊《ひつじ》 [#地付き]羊羹《ようかん》の恨《うら》み   冬の北京《ペキン》は最高気温でも氷点下であるのが普通で、連日強烈な寒さにおそわれるが、その代わりおいしいシャブシャブを食べられるという楽しみがある。シャブシャブはもともと中国の料理であり、本来は牛肉ではなくて羊を使うものだった。  北京の食堂で冬の名物である羊のシャブシャブが始まると、有名店にはどっと人が集まり、長い行列ができる。料理の形式は日本とほとんど同じだが、鍋が独特の形をしていて、銅製で真ん中に煙突があり、下に炭をいれるようになっている。羊肉はまさに芸術的といえるほど薄く切ってあり(肉を一回凍らせてから切るという)、それをさっと湯に通すと色が変わる。そこをすかさずひきあげて、醗酵《はつこう》させた豆腐から作る調味料と醤油、それにごまなど各種の薬味で調味したタレにつけて食べる。  この料理を中国語では「|※[#「さんずい+刷」、unicode6dae]羊肉《シヨワンヤンロウ》」といい、「※[#「さんずい+刷」、unicode6dae]」とは手早くすすぐことを意味する動詞である。この料理で羊の肉の代わりに日本人が好む牛肉を使い、また料理名を擬音《ぎおん》語で表現したのが日本の「シャブシャブ」である。  羊の肉は、日本では北海道などを除いて、デパートの食料品売り場くらいでしか買えないようだ。また気候や産業の関係によって、日本では観光牧場などを除いて、羊がほとんど飼育されていない。  しかし世界的な視野で見れば、羊は食用にされる動物の代表といっていいほどによく食べられている。中央アジアやアラビア半島などに今も大量に存在する遊牧民の主要な動物|蛋白源《たんぱくげん》は羊だし、ヨーロッパやアメリカでも羊の肉はいたるところで食卓にのぼる。 ◎羊羹はスープの一種[#「◎羊羹はスープの一種」はゴシック体]  羊の料理の一種に「羊羹」がある。「羊羹」といってもあの甘いお菓子ではない。「羹」は日本語では「あつもの」と訓じられる字で、ポタージュスープを意味する。だから「羊羹」も本来はスープの一種であった。  羊の肉を使ったスープ「羊羹」は、古代では大変なご馳走だったらしい。戦国時代のこと、今の河北《かほく》省にあった中山《ちゆうざん》国の王が従臣を集めて饗宴《きようえん》を催した。その時に従臣の一人であった司馬子期《しばしき》という者も宴に参加していたところが宴席に出された「羊羹」の量が少なく、司馬子期は口にすることができなかった。そのことに腹を立てた司馬子期は、そのまま南方の大国であった楚《そ》に走り、中山国を征伐するようにと楚王に訴えた。こうして中山国は楚に滅ぼされたという(『戦国策《せんごくさく》』中山篇)。  まさに食べ物の恨みは恐ろしい。宴席で特定の者だけにしか食事が回らないようにすると、あとできっとひどい目にあうという教訓である。 [#改ページ] 81 [#特大見出し] 武《ぶ》 [#地付き]武は戈《ほこ》を止める   コソボ自治区での紛争をめぐって、ユーゴスラビアに対するNATOの空爆が始まった一九九九年の春、私はたまたま仕事でイタリアのナポリに滞在していた。  イタリアのテレビニュースでは、NATO軍の戦闘機が次々に発進していく映像が繰り返し映し出され、アナウンサーがまるで機関銃のような早口で、興奮してしゃべっているが、イタリア語だからなにをいってるのかさっぱりわからない。  ホテルのフロントマンから英語で聞いた話では、ナポリの北約一〇〇キロほどのところにNATO軍の基地があるらしい。この街だっていつ戦場になるかわからない、といつもはきわめて陽気で冗談の好きなフロントマンが、珍しく真顔で話してくれた。  戦後生まれの私には、もちろん直接的な戦争体験がない。だがこの時ばかりは、戦争の恐怖をかなり身近に感じた。NATO軍とユーゴの勢力関係がもしも逆転すれば、私がいたナポリにも爆弾が落ちてくるかもしれない……そう考えると居ても立ってもいられなくなったものだ。 ◎真の勇気[#「◎真の勇気」はゴシック体]  戦争はやっかいなもので、いったん始まるとなかなか中止されない。国家としてのメンツなのか、それとも有利な条件を求めての駆け引きなのか、いずれにせよ、停戦のきっかけを見いだすのはなかなか大変なようだ。  その点、昔の中国にはいい話があった。  大小さまざまな国に分かれて攻防を繰り返していた戦国時代、それぞれの国は軍備の拡張を怠らず、国費の大半を軍事に使っていた。その頃、南にあった強国「楚《そ》」(戦国七雄の一つ)にある大臣がいた。彼はなかなかよく出来た人物で、ある時、戦争に夢中になっている王に向かって、次のように進言した。 「殿、いい加減に戦争をおやめになられてはいかがでしょうか? 戦争は立派な人間がするものではありませんし、イクサをヤメルのが真の勇気というものです。ほら、文字でも『戈』を『止』めるのが『武』ではありませんか」(『春秋左氏伝《しゆんじゆうさしでん》』宣公十二年) [#挿絵(img¥81.jpg、横120×縦200、上寄せ)]  ここに「武」という字の成り立ちが説明されている。今の形とは少し違い、古い字形では「武」は≪戈≫と≪止≫に分解できた。戈は武器の代名詞であり、その使用を停止することが真の武(勇気)であるということを、漢字の成り立ちを使って説明し、好戦的な君主を諫《いさ》めたわけだ。  その大臣の説は、世界に平和をもたらす金言《きんげん》である。ただし文字学的に見ればそれはまちがいで、≪止≫は「ストップ」の意ではなく、「進む」ことを表す要素である。だから、実際には武器を持って進軍することが「武」となるのだが、しかし世界平和を実現させるためだ、誤った解釈ではあっても、ここはひとつ目をつぶりたいものだ。 [#改ページ] 82 [#特大見出し] 糞《ふん》 [#地付き]糞のマイナスイメージ  「コメが体の中で消化されて、異なったものになったら、それはいったいな〜んだ」というなぞなぞがあり、問題があどけないわりには答えが強烈で、正解は「糞」である。  なんだか臭い立つような話でまことに恐縮だが、「糞」という字は確かに≪米≫と≪異≫からできている。だからこのようななぞなぞが作られるのだが、しかし≪米≫と≪異≫を組み合わせた「糞」は比較的新しい形で、古くは、両手でチリトリをもち、その中身を地面に捨てる形に書かれていた。この字の本来の意味は、「掃除する」とか「はらう」ということだった。それが人間の排泄《はいせつ》物をチリトリで捨てることから、やがて「大便」の意味を表すようになったのである。  コメだけでなく、口から摂取したすべての食物は体内で消化され、その残りかすが体外に排泄される。そのうちの固形物を、漢字では「糞」とか「大便」と書く。  この二つは日本人もよく使うが、それ以外に「屎《シ》」という漢字がある。日本ではほとんど使われなくなった漢字だが、今の中国で普通に大便を表す漢字は、実はこの「屎《し》」である。 ◎≪米≫が使われている[#「◎≪米≫が使われている」はゴシック体] 「屎」にも見ての通り≪米≫が含まれている。ところでこの字と兄弟の関係にあるのが「尿」で、こちらの方は「検尿」などの言い方で日本人にもおなじみである。 「尿」や「屎」の外側にある≪尸≫は、人体を表している。だから≪尸≫から出る≪水≫が「尿」、つまりおしっこである。とすれば、≪尸≫から出る≪米≫が「屎」であるはずだが、こんなところから穀物のコメが出てきたら、誰だってびっくりするにちがいない。  この≪米≫はおコメではなく、実は「小粒のもの」という意味を表している。つまり「屎」とは体からツブツブ状のものが出ることを表しているのである。大便を表す漢字である「糞」や「屎」に≪米≫が使われているといっても、それは別に中国や日本でコメが主食だったからというわけではない。  ところで「糞」や「屎」が示す意味ははなはだ不潔で、人が決して喜ばないものである。だからこれらの字は、必然的にマイナスイメージをもつようになった。中国語で出来の悪い詩を「屎詩」といい、またヘボ将棋を「糞棋」という。この「屎詩」を日本語に訳せば、「下手くそな詩」となるだろう。ここに「くそ」(=大便)ということばがつけられているのは、「屎詩」の「屎」とおそらく同じ理由によるのだろう。  テレビゲームに熱中する息子が友人と話しているのを聞いていると、「くそゲー」という耳慣れないことばが聞こえてきた。あとで息子に尋ねると、高いお金を出して買ったゲームがまるでつまらない場合に、それを「くそゲー」と呼ぶとの由である。なんのことはない、中国語の「糞棋」とまったく同じ発想である。大便からの連想は確実に二十一世紀にも受け継がれていくようである。 [#改ページ] 83 [#特大見出し] 文《ぶん》 [#地付き]文はきらびやかな世界   以前住んでいた家の近くに銭湯があった。私は銭湯が大好きで、自宅には風呂もあったけれど、折を見てはしばしば銭湯に出かけた。陰惨な事件が起こったり、不況が長びいていても、銭湯にはいつもおだやかな人情があふれている。文字通りの裸のつきあいができる、こんなすばらしいコミュニケーションの場を持つ国は世界でも日本だけで、この点だけでも日本に生まれてよかったと思う。  父親に似て、娘も「大きなお風呂」が大好きだった。ちょうど二歳になった頃だろうか、娘が真っ赤になって湯船につかっていると、初老の男がひとり、ザブンと湯船に入ってきた。男の背中には、大きな昇り龍があざやかに彫られていた。  この銭湯の近くに暴力団の事務所があって、男はどうやらその組のメンバーらしい。これは早めに出なければ、と思った矢先、「ねぇお父さん、あのオジちゃんの背中、きれいにぬり絵してあるよ!」と叫ぶ娘の大きな声が聞こえた。幸いなことに「ぬり絵のオジちゃん」は子供好きだったようで、適当に娘をあやしてくれたのだが、私の方はまったく生きた心地がしなかった。 ◎ニセの文化はびこる[#「◎ニセの文化はびこる」はゴシック体]  おなじみ「遠山の金さん」の背中にある桜吹雪や、巷《ちまた》で「任侠《にんきよう》の徒」を気取る人たちが描く「唐獅子牡丹《からししぼたん》」のような身体装飾を、世間では「入れ墨」と呼ぶ。しかしあれは正しくは「彫り物」というべきで、入れ墨とは、特定の部族や集団の構成メンバーが必ず経験しなければならない社会的な慣習として、身体に描き加える装飾のことである(後世には刑罰の一種として身体に墨を入れることもおこなわれた)。  漢字が作られた時代の中国には、通過儀礼としての入れ墨の習慣があったらしく、成人式を迎えた若者や死者などの身体に、一定の図案を描き加えたようだ。そのことを示すのが「文」という漢字である。 「文」とは、胸部中央に入れ墨を施した人間を正面から見た形を示す字であり、そこから「きらびやかな模様=あや」という意味を表すようになった。 [#挿絵(img¥83.jpg、横120×縦200、上寄せ)] 「文章」というのも、もともとはきらびやかな世界を文字で表現したもののことだった。  人間が暮らす社会は、華やかな彩《いろど》りにあふれたきらびやかな所でなければならない。社会を華やかで潤《うるお》いあるものにするのが「文化」なのである。  聞けば近頃、若者の間に「タトゥー」という名の、見るからにけばけばしい彫り物が流行しているそうだ。まあ誰がなにを彫りこもうが私に迷惑がかかる話ではないからどうこういわないが、しかし「文明」の異常なまでの爛熟《らんじゆく》とともに、ニセの「文化」がはびこりだしているのではないかという気がしないでもない。 [#改ページ] 84 [#特大見出し] 保《ほ》 [#地付き]保母の条件   人は適齢期になると結婚して子供をもうける。もちろん最近では一生結婚しない人もふえており、また結婚しても子供が生まれない、あるいは故意に生まない人もいるが、人類が太古の昔から現在にいたるまで続いてきたのは、いうまでもなく結婚と出産によって子孫を増やしてきたからである。  私も二人の子供を育てたので実感するが、育児とはいつの時代でも手のかかる仕事である。この子育ての一面を示す漢字のひとつに「保」がある。「保」とは人間が幼児を背中におんぶし、片手を幼児の背中に回している形をかたどった文字で、「子供を養育する」というのが本来の意味だった。ちなみに現在の中国では、子供をおんぶするのは南方地域に限られているようだ。しかしこの漢字から、古い時代にはおんぶの習慣が普遍的に存在したことがわかる。 [#挿絵(img¥84.jpg、横120×縦350、上寄せ)]  この字はまた青銅器の銘文にも使われており、そこでもおんぶされている子供が、片手を上にあげ、もう一方を下に向けている。このように中国の古代文字で「一上一下」の手の向きに描かれる子供は、おそらく王子だった。このマークをもつ青銅器は非常に立派なものが多いのである。 「保」とは、王子をおんぶして育てるという意味だった。この「おんぶ」からやがて意味が拡大し、一般的な「保護する」という意味に使われるようになっていったのである。 ◎三つのランク[#「◎三つのランク」はゴシック体]  この字を使った熟語に、保育所などで幼児の保育にあたる「保母」がある。日本のごく小さな子供でも知っていることばだが、しかしこれももともとは、古代中国の宮廷内に設置された役職の名前であった。  儒学の経典『礼記《らいき》』の中の「内則《だいそく》」は、王や貴族の家庭における子弟教育としつけや作法を記した篇であり、そこに「保母」ということばが見える。  古代の貴族の家では子供の養育を担当する女性を雇用した。「内則」によれば、これには三つのランクがあったようで、上から順に「子師《しし》」「慈母《じぼ》」「保母《ほぼ》」と呼んだ。この養育係になれる条件も「内則」に規定されていて、それは「寛裕《かんゆう》、慈恵、温良、恭敬《きようけい》にして慎みぶかく、寡言《かげん》なるもの」とされている。つまり心が広くて慈愛深く、おだやかで礼儀正しく、なにごとにも慎重でしかも寡黙《かもく》な女性が要求された、ということである。  少子化の影響で、学校の教員や保母には今ほとんど求人がない。だがその就職難は古代でも同様で、「保母」になるのはなかなか大変だったようだ。 [#改ページ] 85 [#特大見出し] 卍《まんじ》 [#地付き]卍は吉祥万徳  「卍」がれっきとした漢字であるといえば、意外に思う人が多いのではないだろうか。現在の日本で「卍」の形をもっともよく見かけるのは地図の上で、そこでは寺院を表す記号として使われている。それ以外にもお寺の門などでこの字を見かけることがあるが、ほとんどの日本人は、これを◎とか※などとおなじような、記号の一種だと考えているにちがいない。  漢字はそれぞれの文字が意味を表す表意《ひようい》文字だから、各字ごとに字形と字音と字義(意味)をもつ。これを漢字の三原則という。だが漢字はかならず一定の字音をもっているが、記号には字音がない。駐車禁止を表す交通標識「※[#「○に/」]」を「駐車禁止」と読むのは、単にその意味を述べているだけで、この記号を「ここに車をとめてはいけません」と読んでもいっこうに差し支えない。だから「※[#「○に/」]」は漢字ではなく、記号なのである。  卍はもともとはインドで作られた、仏教に関係することを表す記号だった。卍は古くはまた「※[#逆向きの「卍」]」とも書かれ、太陽の光が右回り(「※[#逆向きの「卍」]では左回り)に放《はな》たれている形をかたどったものと考えられる。  その起源はインドの太陽神であるヴィシヌ神の胸にあった旋毛《せんもう》(渦巻いた胸毛)の形に由来し、瑞兆《ずいちよう》の相とされた。これが仏教に入り、菩薩《ぼさつ》の胸や手足に現れた仏心を表す吉祥《きつしよう》とされた。卍はサンスクリット語ではスヴァスティカ(svastika)といい、中国語ではそれを「吉祥万徳」と訳した。 ◎似ているナチスのシンボルマーク[#「◎似ているナチスのシンボルマーク」はゴシック体]  このように卍はもともと古代インドで使われた記号だったのだが、仏教が中国に浸透するにつれて、中国では文字として使われるようになった。仏教経典に見える特殊な漢字が多く収められていることで知られる遼《りよう》(九一六〜一一二五)の釈行均《しやくこういん》撰『龍龕手鏡《りゆうがんしゆきよう》』に、「卍は音|万《まん》、是れ如来《によらい》の身に吉祥の文有るなり」とある。ここで字音が指定されていることが、漢字として使われた証拠である。  卍の字音が「万」とされているのはもともと表していた「吉祥万徳」の「万」に由来するもので、これが日本でこの字を「まんじ」と読む理由である。ちなみに現代の中国語でも、この字は「万」と同じように wan と発音する。また漢字に関する字典では、卍は≪乙≫部の三画に所属する。  なお卍とよく似た形のものに「※[#逆向きの「卍」]」がある。これは卍の異体字として中国で使われたこともあるが、より有名なのはナチスのシンボルマークである。ナチスは卍の変形(逆卍)をハーケンクロイツ(鉤十字)と称し,反ユダヤ主義の象徴として用いた。もともと慈悲のシンボルであったものが、史上まれな残虐行為に関係づけられたのだから、歴史とは皮肉なものである。 [#改ページ] 86 [#特大見出し] 道《みち》 [#地付き]二通りの道   北海道の広大な大地を車で走っていると、道路標識にときどき「道道○号線」ということばが現れる。「ドウドウ」と読むこのことばは、北海道に暮らしている人にはなんということもないのだろうが、私は最初少しとまどった。 「道道」とは道路の分類で、国が建設した道路を「国道」、県が建設した道路を「県道」と呼ぶように、北海道が敷設した道路が「道道」なのである。つまり最初の「道」は地方自治体の名称、あとの「道」はもちろん「みち」の意である。  国をいくつかの行政区画にわけ、それを「○○道」と呼んだのは、中国で唐《とう》の時代から始まった制度である。なお県や郡・府などももちろん同じことだが、「都」は最初は行政区画ではなく、単に「首都」という意味の普通名詞であった。  中国では明《みん》から清《しん》の時代まで「道」という行政区画があったが、中華民国以後その名称が姿を消した。だが日本では律令制の導入とともにその呼称を使いだし、江戸時代まで東海道や山陰道などの行政区画が存在した。現在の「北海道」は、その名称がいまも使われている唯一の名残である。  その「道」内に作られた道路は、都会に暮らす者から見ればよくもまあ、これほど単純に作ったなとあきれてしまうほどに、ひたすらまっすぐ通っている。数学の授業で、二点間の最短距離は直線であると習ったが、なるほど道とは離れた二つのポイント間を、直線でずいっと結んだものなのだな、と心から実感できる。 ◎魔除けの生首[#「◎魔除けの生首」はゴシック体]  はるか昔、広大な大地に人間の暮らす集落がポツポツと点在していた頃、集落と集落をつなぐ道はまったくなかった。集落の間には無人の荒野が広がっていて、そこにはさまざまな魑魅魍魎《ちみもうりよう》が跋扈《ばつこ》していた。だから隣の集落に向かう者は、荒野にはびこる悪霊《あくりよう》をはらいよけながら進まねばならなかった。  だが悪霊はなかなか強敵であるから、いつ襲いかかってくるかわからない。だから魔除けが必要である。その時に悪霊を追い払うために、異民族の生首が使われた。隣の集落に向かう人は、魔除けとして人間の生首を手に持って進んでいった。こうして作られたのが「みち」であり、だから「道」という漢字は、シンニュウと≪首≫からできているのである。  日本での漢字研究の泰斗《たいと》である白川|静《しずか》氏の著述に見えるこの説は、不思議なことに中国の研究者からあまり引用されていないけれども、古代のおどろおどろしい習俗の実態をあますところなく示す、すぐれたものと私は考える。  だが恐ろしいのは決して古代だけではない。長く続く景気の低迷によって、企業の倒産やリストラが頻発し、ためにあたり一面に「生首」がゴロゴロと転がる時世である。この生首が悪霊払いの効果を発揮して、雇用状況の改善と景気回復をうながす「道」が、どこかに作られないものだろうか。 [#改ページ] 87 [#特大見出し] 緑《みどり》 [#地付き]不名誉な緑   地球環境を保護するために「緑」が話題になることが多い。家内が愛読している雑誌を手にとり、暇にまかせてパラパラ眺めたら、料理やセックスに関する記事に負けないくらいに「ガーデニング」関係の話が多い。  緑は旺盛な生命力のシンボルカラーであり、信号なら「進め」になる。何年か前には、破綻《はたん》したあとを整理して新生した銀行の名前にも使われた。この色に対して悪いイメージをもっている日本人はめったにいない。  しかし過去の中国では、緑は時に忌《い》まわしい色彩と感じられることがあった。もちろん新緑を愛好する感情は中国人とて同じだし、その美しさを詠んだ詩もたくさんある。だがそれ以外に、緑は中国では人をおとしめる表現に使われることがあった。  緑は植物の色であると同時に、亀の色なのである。川に生息している亀は、首のところが緑色になっていることがよくある。そして亀は不幸なことに、中国では人を激しく罵倒《ばとう》する時に、たとえとして使われる動物である。  古代の中国人が語るところでは、メスの亀はオスがあまり役に立たないので、オスの蛇と交わるとか、あるいは往来のどまんなかで、人が見ている前で平気でオスとメスが交わるという。まさか、とは思うが、しかし亀にはこのように破廉恥《はれんち》な習性があるということから、人を罵倒する時に「この亀野郎」とでもいうような表現が使われた。 ◎寝取られ男の帽子[#「◎寝取られ男の帽子」はゴシック体]  亀のイメージによって他人をおとしめることは、単に言語表現だけでなく、亀の具体的な姿を思い浮かべさせる形でも使われた。  唐代の『封氏聞見記《ほうしぶんけんき》』という随筆によれば、李封《りほう》という人がある町の長官になった時、罪人に対する杖刑《じようけい》(木の棒でたたく刑)を廃止し、そのかわりに外出時に緑の頭巾《ずきん》をかぶらせるようにした。こうしたところ、罪人は緑の頭巾をかぶったまま町を歩くことを大いなる恥と感じ、それ以後は犯罪者が激減したという。この一風変わった刑罰を受けた罪人の姿は、まさに亀の姿をイメージさせる。それで罪人たちは緑の頭巾をつけて歩くことを心底いやがったのである。  さらに元《げん》の時代には、遊廓《ゆうかく》を経営する男性が緑色の頭巾をつけるようにと強制された。遊廓の経営は当時「賤業」とされており、その経営にかかわる者たちには通常の市民権が与えられていなかったのだが、むごいことに彼らは外出する時に緑色の頭巾をかぶって、自分の職業を明示することを義務づけられていた。さらにもっと後には、「戴緑帽子」(緑色の帽子をかぶる)という表現が、妻を寝取られた男性を意味する隠語となった。いずれも亀と卑猥《ひわい》さが結びつけられた結果である。  梅雨の晴れ間に小川のほとりをノソノソ歩く亀には、なかなか愛嬌《あいきよう》がある。だがもし来世に亀に生まれ変わる運命ならば、できれば日本の亀に生まれたいものである。 [#改ページ] 88 [#特大見出し] 麦《むぎ》 [#地付き]麦は遠くから来るもの   中国の食生活にもっとも大きな影響を与える穀物は、昔も今も「麦」、すなわちムギである。  今の日本で使われる「麦」という字は「麥」の略字であり、「麥」の前にはムギは単に「來」という字で表された。「麥」とはその≪來≫の下に≪夊≫を加えた形で、≪夊≫とは人間の足の形である。  ムギを表す漢字にこのように足の形が加えられているのは、ムギの無駄な生長を防ぎ、根の張りをよくするために春先にムギの芽を足で踏みつける「麦踏み」をおこなうからである。麦踏みは実に早い時代からおこなわれていたのである。 「來」(=「来」)はムギが実り、ノギを大きく左右に張り出しているさまをかたどった象形文字である。 [#挿絵(img¥88.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  この字はしかし、古代ではほとんどの場合、「来る」という動詞で使われており、また「来月」というように、時間的に未来に属することを意味する使い方も、早期の文字資料に見える。  このようにムギがノギを張っているさまをかたどった文字が「往来」の意味になったのは、ムギを指すことばと「来る」という動詞の音が当時たまたま同じだったために、ムギの字を借りて「来る」という意味の文字として使ったからにすぎない。 ◎素晴らしい穀物[#「◎素晴らしい穀物」はゴシック体]  しかしムギは重要な作物であると意識されたために、その意味の変化については伝説がある。その話によれば、ムギは天から与えられた素晴らしい穀物であり、天上の世界から「来た」ものであるから、「来る」ということばでその穀物を意味するようになった、というのである。 『詩経』の「思文《しぶん》」という詩に「我に來牟《らいぼう》を貽《おく》る」という句があり、注釈によれば周《しゆう》の武王《ぶおう》が殷《いん》を倒して新しい王朝を作り、理想的な世の中を実現したので、天がその功績をめでてもたらした「嘉穀《かこく》」(素晴らしい穀物)がムギであったという。  周王朝の始祖は、后稷《こうしよく》という農業神だった。はじめ周は西の方で遊牧生活をいとなんでいたが、農耕を覚えて定着しはじめた頃から勢力が強大になった。そのためにムギという新しい作物の栽培が建国神話に結びつけられているのだが、しかし殷代の甲骨文字の中にすでに「來」という文字があるから、殷代に黄河《こうが》の流域ですでにムギが栽培されていたことは確実で、周の建国とともにムギが「天から来た」というのはどうやら事実ではない。  ただムギは地中海東部が原産地で、中国には西方から伝わってきたから、「遠くから来た穀物」という意味で、ムギを表す名詞と「来る」という動詞が、中国語で同じ音となったという可能性はある。ちなみに国内で消費するムギのほぼ全量を輸入に頼る日本では、今にいたるまでずっと「麦」は遠くから来るものであり続けている。 [#改ページ] 89 [#特大見出し] 虫《むし》 [#地付き]虫が売られる時代   小中学校の夏休みには、今も理科や社会などの分野で「自由研究」という名の課題が出る。学校の意図としては子供の自主性にまかせて活発な想像力を発揮させようというつもりだろうが、親にとってはこれがけっこう頭痛のタネである。その時期に「ホームセンター」などのDIY(Do It Yourself)専門の大型店舗に行くと、できあいの各種「自由研究用キット」が並んでいるのが、なによりもわかりやすいその証拠である。  たっぷり時間のある夏休みに、子供に旺盛な好奇心を自由に発揮させ、ユニークなテーマを追いかけさせるのはもちろん意義のあることだ。しかし毎年のように独創的な課題を見つけろ、と子供に要求するのはいささか酷《こく》である。大人をして感心せしめるようなテーマを、子供の力だけで毎年毎年見いだすことがはたして可能だろうか。小学校六年間を通じて一度くらいそれができれば、まさに御《おん》の字《じ》であろう。かくして夏休み明けには、親子合作の「力作」が教室に並ぶ。  わが家にも小学生の子供がいるから、夏休みの自由研究には頭を悩ませる。私たちの世代では、夏休みの課題で真っ先に脳裏《のうり》に浮かぶのは昆虫採集である。  折しも朝から晩まで家の中で遊ぶ子供の声で、昼間には読書や書き物がまずできない。そんなこともあって、子供といっしょに久しぶりに虫捕り網をもって、近くの林まで昆虫採集に出かけた。いざ父親の腕の見せどころとばかりに、一時間ほど網を振ってみたが、しかし虫捕りもそうそう簡単ではない。かろうじて捕れたのはありふれた蝉《せみ》と蝶《ちよう》ばかりだったが、それでも子供たちにとっては楽しい時間だったようだ。  都会では今や昆虫は「高級商品」である。デパートや大きなスーパーでは、カブトムシやクワガタムシがびっくりするような値段で販売されていて、エサもまるで人間が食べるお菓子のゼリーのように加工されて売られている。くぬぎのとまり木がついた飼育セットまであるのだから、こうなると虫もペット並みの扱いである。 ◎蟲が虫となる[#「◎蟲が虫となる」はゴシック体]  ムシはもともと「蟲」と書いたのが、「蟲」では画数が多すぎるので、省略して「虫」と書かれるようになった。  しかし「虫」は「蟲」とは別に古くからある漢字で、本来はヘビをかたどった文字だった。それが、やがて本来の意味がしだいに忘れられて、いつの間にか「蟲」の略字として使われるようになった。さらにそれが戦後の文字改革で、中国でも日本でも「ムシ」を意味する正規の字体とされた。結果としてもともとの「ヘビ」という意味が忘れられてしまった。  もし「虫」が今もそのままヘビだったら、きっとデパートでは売られないし、宿題のための採集もされなかったことだろう。 [#改ページ] 90 [#特大見出し] 目《め》 [#地付き]目に恨《うら》みをこめる  「目」は非常にわかりやすい象形文字で、人の目の形をかたどった文字である。もちろん「人の目」が本来の意味である。 [#挿絵(img¥90.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  なんども引用する『説文解字』では、「目」の中に横線が二本あるのは、一つの眼球の中に瞳が二つあるようすをかたどっているとされる。眼球の中に瞳が二つあることを、古代中国ではすぐれた人物であることを示す相と考えていた。しかし目は誰にでもあるが、万人がすぐれた人物であるわけではない。だからすべての人間に瞳が二つあるはずがない。  この点で『説文解字』の説明は信じがたい。甲骨文字などの字形によれば、「目」の真ん中の部分は二本線ではなく、ほぼ円形に書かれている。そこから考えれば、「目」はどうやら文字全体として、単に眼球をかたどったものにすぎなかったようだ。 「目」はもともと人の目そのものを指した。春秋時代に長江《ちようこう》下流域にあった呉《ご》と越《えつ》は、「臥薪嘗胆《がしんしようたん》」の故事でも知られるように、不倶戴天《ふぐたいてん》のライバル国家として激しく対立した。その二国の攻防において、呉の勝利に大きく貢献した伍子胥《ごししよ》は、呉が覇権《はけん》を確立するとやがて呉王|夫差《ふさ》から冷遇され、自殺に追い込まれた。伍子胥は自殺する時に、恨みをこめて、「私の目玉をえぐり取って東の門にぶらさげておけ。わが亡き後、やがて越が侵略してきて、この国が滅びるのをしかとその目で見てやろう」(吾が目を東門に懸けよ、以て越の入りて、呉国の亡ぶを見ん)と述べたという。ここに「目」という字を本来の意味で使った強烈な用法がある。 ◎目玉をえぐり取る[#「◎目玉をえぐり取る」はゴシック体]  死体から目玉をえぐり取るというのは、想像するだに恐ろしい話である。しかし昔の中国人はそんなおぞましい話が好きだったのか、同じような話が歴史の中に繰り返して登場する。  前漢の高祖|劉邦《りゆうほう》と若い頃に結婚し、やがて皇后に立てられた呂后《りよこう》は、いささか常識はずれのやきもち焼きの女性であった。天下をとった高祖は、晩年に戚夫人《せきふじん》という若い女性を寵愛《ちようあい》した。やがて高祖が亡くなると、呂后は夫がかわいがった女性に対して、これまでの恨みを一挙に晴らさんとの思いをこめた復讐にでた。それはまさに「怨念《おんねん》」と呼ぶのがふさわしいほどの虐待であった。 『史記《しき》』(呂后本紀)によれば、それは戚夫人の手足をすべて断ち、目をえぐり取り、耳をそいで、トイレの中に放り込むという、それはそれは凄惨《せいさん》なものであったという。ちなみに当時のトイレではブタが飼われていたので、手足を切り取られ、目も耳もない女性を「|人※[#「祿」のつくりの上部/(「比」の間に「矢」)、unicode5f58]《じんてい》」(ひとの形をしたブタ)と呼んだという。  それにしても、自分の夫が浮気した女とはここまで憎いものだろうか。こんな話を生んだ中国だ。その国に暮らす既婚男性のほぼ全員が恐妻家であることに、私はなんの不思議も感じない。 [#改ページ] 91 [#特大見出し] 桃《もも》 [#地付き]桃がもつ神聖さ   昔むかしの中国の話、ある漁師がよい漁場を探して川をさかのぼっていると、両側に桃の木が茂るところにでてきた。咲きみだれる桃の花の、あまりのあざやかさに漁師は仕事もすっかりわすれ、道の続くままにそのままどんどん進んでいくと、やがて谷間がぽっかりと開け、そこに小さな村があった。  しかしこの村の人々は一風変わっていて、ずいぶん奇妙な服装をしているし、家屋や道具も漁師の目にはへんてこなものばかりに映った。不思議に思った漁師が住人に尋ねてみると、そこはなんと、はるか昔に秦《しん》の始皇帝《しこうてい》(前二五九〜前二一〇)の暴政から逃れ、山奥に隠れ住んだ人々の子孫が暮らす村だという。村人は今の世の中がなんという時代で、誰が王になっているのか、世間のことをなにひとつ知らなかった。だがそれでも、そこでは静かな、そして実に平和な生活が営まれていた。  ユートピア、理想郷のことをまた「桃源郷《とうげんきよう》」と呼ぶのがこの話に由来することは、ここであらためていうまでもないだろう。この話の著者を陶淵明《とうえんめい》とするのは後世の仮託らしいが、それはともかくとして、山奥に存在する理想郷に至る道は、まず桃の木が茂る林からはじまる。ここで理想郷が桃林の奥にあったのはおそらく単なる偶然ではなく、桃がもつ神聖さが作用しているはずである。 ◎神秘的な果実[#「◎神秘的な果実」はゴシック体]  古代中国では、桃は邪悪な悪霊を追い払うことができる神秘的な植物だと信じられていた。桃は樹木と果実の両方がいろんなまじないに使われ、たとえば正月には桃の木で人形を作って玄関においたり(「桃人」という)、桃の木から作った札に絵をかいて門に掛けて(「桃符」)、悪魔除けとした。桃の実で作ったスープ(「桃湯」)にも、同じような魔除けの効果があると信じられた。  ずっと時代はくだるが、『西遊記《さいゆうき》』で孫悟空《そんごくう》が天界を追い出されるようになった原因も実は桃にあった。悟空は天を支配する西王母《せいおうぼ》という女神が栽培させている桃を、無断で全部食べてしまったのだが、この桃は食べると不老長寿の身になれるという「仙桃」だった。  神聖な木だった桃は、しかし社会の宗教性が薄れてゆくにつれて、ごくごくありふれた、普通の樹木になってしまった。現在の中国には、桃の木や実を使った特別なまじないはもはや存在しない。それどころか、たとえばスキャンダルのことを、中国語では「桃色新聞」という。  かつて神聖な樹木であった桃は、今ではすっかり堕落して、その色と形から卑猥《ひわい》な連想を抱かせるようにまでなってしまった。桃を栽培する農家が、形をわざとヒップに似せているわけではないから、こんな連想は農家にもきっと迷惑にちがいない。桃よ、おのれの姿を見て邪悪な連想をもち、ニヤつく桃色紳士たちに大いなる罰をあたえるがよい! [#挿絵(img¥p201.jpg)] 92 [#特大見出し] 休《やすみ》 [#地付き]休は木陰でほっと一息   娘が小学生の時に読んでいた本を何げなくパラパラ見ていると、「日本人の働き好きは、長所でもあり短所でもある」と書かれている一文が目にとまった。  不思議なことを聞くものだ。私たちの世代は小さい時からずっと、両親からも学校からも、勤勉は最高の美徳であり、くれぐれも怠け者になってはいけない、と教えられてきた。その教えは基本的に今でも正しいと私は信じて疑わない。だから、よく働くことがなぜ「短所」に数えられるのか、その理屈が私にはうまく理解できないのである。  もちろん一通りの説明は承知している。いわく、日本と外国との貿易摩擦が深刻化してきて、ほとんどの外国が日本からの輸入超過におちいっている。それもはんぱな金額ではない。このまま日本人が勤勉に働き続ければ、外国との貿易格差は広がる一方である。だから日本人はこれからはあまり働かず、せいぜい余暇を楽しんで、できれば外国に出かけたりして、だぶついた外貨をどんどん使って、貿易格差を解消するべきである……。  一見もっともな意見ではあるが、よく考えればこんな馬鹿な話はない。日本が大幅な貿易黒字を達成しているのは、もっぱら国民の勤勉性と製品の優秀さによる。そのことは他国に対して誇るべきであっても、決して恥ずべきことではない。いわんや詫《わ》びることでは絶対にないはずである。 ◎日本人の勤勉性[#「◎日本人の勤勉性」はゴシック体]  しかし現実の国際関係においては、日本人の勤勉性が攻撃の対象となる。今では海外の事情にあわせて、私たちも仕事をしなければならないらしい。外国にしかられるから、みんなあまり働かないでくれ、と政府が国民を指導するのだから、まったくいやになる。  ゴールデンウィークや夏の盆には、この期間中を全休にする企業もある。おかげで内外の観光地は連日盛況だ。だがもともと休み慣れていない働きバチ世代は、人混みの中で数日を過ごすとかえってぐったりしてしまう。いったいなんのための休日だ。「レクリエーション」ということばの語源は「改めて作りだす」ことであるはずだ。レクリエーションのつもりが、余計に疲れては何にもならない。  どうしても休めというのなら、「休」という漢字を体現して過ごすほかないようだ。 [#挿絵(img¥92.jpg、横120×縦160、上寄せ)] 「休」とは見ての通り、≪人≫と≪木≫からできており、木陰で人がほっと一息ついている形である。緑の下は空気もうまいし、のんびりと昼寝もできる。行楽地を走り回るよりも、できればそんなところで、休み明けからふたたび始まる仕事のための英気をじっくりと養いたい。と、このように休みも仕事のため、と考えること自体が、すでにワーカホリックの兆候なのかもしれない。 [#改ページ] 93 [#特大見出し] 柳《やなぎ》 [#地付き]柳巷花街   子供の頃、学校の地理の時間に北半球と南半球で季節がさかさまになるということを習い、とても不思議に感じたことを覚えている。たしか教科書には、オーストラリアの浜辺で海水浴をしている人々の横でプレゼントを配るサンタクロースの写真が載っていた。  地球は広い。季節の感覚も世界中まちまちで、日本では桜の開花とともに春がきたことを感じるが、しかし世界中どこでも春に桜がさいているわけではない。だから桜は決して万国共通の春のシンボルではない。  それぞれの国や地域には、もちろんその土地での春の到来を語る物があり、日本の桜にあたるものが中国では「柳絮《りゆうじよ》」、つまりわたのような柳の種子である。これが風に舞って、空中をふわふわと漂い出す時に、中国(といっても黄河《こうが》より北側だが)の人は春の到来を感じるのだ。  柳は古くから中国人に親しまれており、今でも街路樹としてよく植えられている。風雅な庭園にも柳はよく似合うし、水辺や湖畔などでも風景にうまく調和する。さらに柳は乾燥にも強いので、他の樹木が育たない乾燥地帯でも、防風林として植えられることがある。   渭城《いじよう》の朝雨は軽塵《けいじん》をうるおし   客舎は青々として 柳色新たなり  唐の王維《おうい》(六九九頃〜七六一)が作った有名な詩の一節で、旅に出る友人を送る歌として、中国では今もよく朗誦《ろうしよう》される。この詩に登場する渭城は、渭水という大きな川のほとりにある町で、長安《ちようあん》から西(つまりシルクロードの方向)に向かう人は、ここで送ってきてくれた友人と別れて旅立つのが普通であった。 ◎愛する人の惜別《せきべつ》の情[#「◎愛する人の惜別の情」はゴシック体]  見送る人は川辺の柳の枝先で丸い輪を作って、旅立つ人に手渡した。「柳《リユウ》」は「留《リユウ》」と同じ音で、「留」には「気にとめる・なつかしむ」という意味がある。輪のことを中国語では「環」といい、「環《ホワン》」は「還《ホワン》」(かえる)と同じ音である。すなわち柳の輪には、「あなたが一日も早く帰ってこられるようにと気にかけています」という意味がこめられているのである。  こんな心のこもった惜別《せきべつ》の情を、それも愛する人からささげられたら、きっと天にも舞いあがる気持ちで、これからの旅の辛さもなんとか克服できるだろう。柳の輪に託された気持ちには、快適な旅行しか知らない現代人が、もうとっくに忘れてしまった美しさが秘められている。  しかし同じ柳でも、色街での疑似《ぎじ》恋愛となれば純粋さがほとんど感じられない。中国では色街の並木としても柳がよく使われた。だから色街を「柳巷花街」といい、これが日本語の「花柳界」の語源となった。妓女が遊客のために柳で輪を作ったとしても、それがいつまでもそこに居続けて、たくさんお金を使ってくれるようにとの願望の表明であるとしか思えないのは、やはりもてない男のひがみなのだろうか。 [#挿絵(img¥p207.jpg)] 94 [#特大見出し] 雪《ゆき》 [#地付き]雪見酒を楽しむ   時折つきあいでカラオケにいくことがあるが、私と同行するのはだいたい中年のおっさん・おばちゃんであり、いけばきまって「最近の若い人の歌はまったくわからない」とのぼやきが出る。若者の歌が年寄りにわからないのは今にはじまったことではなく、私たちが若かった頃だって、当時の流行歌はやはり年上の層からは理解が得られなかった。  友人の一人に、日本歌謡史上最高の名作はかつて森繁久弥氏が歌った「知床旅情《しれとこりよじよう》」であると信じて疑わない者がいる。彼は別に北海道の生まれではないのだが、あのメロディと歌詞には日本人の心の琴線《きんせん》をふるわせる最高の条件がそろっていると説いてやまない。  私も「知床旅情」は嫌いではない。しかしそれよりむしろ、出だしの部分がよく似ている「早春賦《そうしゆんふ》」の方が好きである。  春は名のみの風の寒さや、と歌いだすこの歌は、まさに日本人の感性に訴える繊細な叙情性にあふれており、厳寒期がそろそろすぎ、春の芽生えが感じられてくる頃には、放送局に多くのリクエストが寄せられるそうだ。その時期に車を走らせていると、この曲がよくかかり、私もおもわず唱和してしまう。 ◎万物を喜ばせるもの[#「◎万物を喜ばせるもの」はゴシック体]  雪は昔の唱歌では定番的なアイテムである。童謡では雪がコンコと降ると、犬が喜んで庭を駆け回ることになっている。その通りわが家の小犬も雪が大好きで、白いものがチラチラ舞うと興奮して、なんとなくそわそわしだす。雪には生物を感動させる美しさがあるらしい。 『説文解字』は「雪」という漢字を「氷の雨なり、物を説《よろこ》ばせる者なり」と解釈している。 「説」はここでは「悦《よろこ》」ぶという意味で使われており、古い書物ではこのように音が同じか、あるいは非常に近い他の漢字を使うことがよくある。  そしてこの解釈では「雪《セツ》」という字の音を、「説《セツ》」の字の音におきかえて理解しようとしているのだが、それにしても、雪とは万物を喜ばせるものであるという解釈は、日本の童謡を思い出させてなんとなくほほえましい感じがする。  若者はスキーやスノーボードに興じるし、中年のおっさんだって、和服の似合うこ粋《いき》な女性を相手に、こたつにでも入ってしっぽりと雪見酒を楽しむという、昔ながらの陳腐《ちんぷ》きわまりない妄想に酔いしれる。 [#改ページ] 95 [#特大見出し] 豊《ゆたか》 [#地付き]豊かな生活とは   殷《いん》から周《しゆう》の時代にかけて、中国の王や貴族の家では祖先に対する祭りが厳粛におこなわれ、その祭祀《さいし》では数多くの豪華な青銅器が使われた。  古代中国の青銅器は、その用途によって楽器・食器・酒器などに分類され、食器はさらに調理道具と、食物の盛りつけ用のものに分けられる。調理器具としても使われた青銅器の代表は、「鼎《かなえ》の軽重《けいちよう》を問う」(『春秋左氏伝』)という成語で知られる鼎であり、これは三本の脚をもち、その上に大きな鍋を載せた形をしている。鍋の上に耳が二つついているが、これは重い鼎を運ぶためのもので、ここに棒を通して運べば、熱くて手が触れられない状態の鼎でも簡単にどこかにもっていくことができた。鼎は肉などを入れたスープを煮る鍋であり、本来は調理器だったが、食品をいれたまま祭祀の場に運んで祭壇に供えたとも考えられる。  食器に分類される青銅器には、他に調理された食品を盛りつけるためだけに使った容器もあり、こちらにもいろんな形のものが作られている。なかでもよく使われたもののひとつに底の浅い平皿に長い脚をつけた道具があって、それを中国では「豆《とう》」といった。 「豆」(日本では高坏《たかつき》と呼ばれる)はこのような器形を、そのままうつしとった漢字である。この字は後世では「マメ」という植物の名前に使われるようになったが、それは食物を盛るのに使った道具と、植物のマメとがたまたま同じ音のことばだったので、高坏を示す文字を借りて植物のマメを意味する文字として使ったからである。 ◎「豊」の本来の意味[#「◎「豊」の本来の意味」はゴシック体]  この「豆」の上に、ゆたかに実ったキビなど穀物の穂を置くと「豐」となる。「豐」とは農業の豊作を神々に報告し、感謝するために、たわわに実った穀物を高坏に載せている字形であり、そこからこの字は「ものがたくさんある」、あるいは「大きい」という意味をもつようになった。 [#挿絵(img¥95.jpg、横120×縦200、上寄せ)]  この形をかたどった文字は、やがて「豐」と「豊」という、よく似ていながらも微妙に異なったふたつの文字に分化し、「豐」(音読みは「ホウ」)は「ゆたかである」ことを、「豊」(音読みは「レイ」)は一晩でできる甘い酒を意味する漢字となった。この酒がふるまわれる宴会を「饗醴」といい、この宴会の儀式から、やがて「禮」(=礼)という字ができた。  日本では「豐」の簡略形が「豊」と考えられているが、中国では「豐」と「豊」とは別々の字とされていた。また革命後の中国で使われる「簡体字」では、「豐」を「※[#「三に縦棒」、unicode4e30]」と書くが、それは「豐」の一部だけを取り出したものである。ある大学での中国語の授業で、この「※[#「三に縦棒」、unicode4e30]」の字形を焼き鳥の串に見立てた学生がいた。なんとも突飛《とつぴ》な連想だが、彼にとっては焼き鳥をたらふく食える生活が「豊」かである、ということなのだろう。 [#改ページ] 96 [#特大見出し] 夢《ゆめ》 [#地付き]夢に託して   もうずいぶん前の話だが、写真植字機の大手メーカーである�写研《しやけん》が、「漢字博士コンクール」という名称で、漢字の読み書き能力を競うコンクールを実施していた。単に漢字の書き取りとはいっても、なかなか手強《てごわ》い問題がたくさん出題されていたのだが、その会場で試験の実施にあわせて、しばしば「日本人が好きな漢字」が調査されていた。  これはあらかじめ選んでおいた百種類の漢字の中から、大会参加者に好きな字を選ばせるというもので、選ばれた漢字を多い順に十位まで発表していた。選択肢の百字中には「死」とか「悪」など暗いイメージの文字もあるが、そんな字が好まれるはずもなく、ベストテンに入っているのはいずれも明るくて好ましい概念を示す文字ばかりである。  その調査がおこなわれた最終回で、もっとも人気があったのは「夢」だった。そしてこのことについて、新聞などでは社会が殺伐としてきたので人々は暮らしの中に夢を求めている、というような分析がおこなわれていたようだ。 ◎呪われて見るもの[#「◎呪われて見るもの」はゴシック体]  だがしかし、「夢」とは決してそんなに楽しい意味を表す文字ではない。  古代文字の「夢」は、頭にツノのようなものをつけた人間がベッドに寝ている形に描かれている。 [#挿絵(img¥96.jpg、横120×縦160、上寄せ)]  人間の頭に大きなツノがついていると聞けば、ついついご自分の奥方様を連想してしまう御仁も多いだろうが、ここでのツノはそうではない。それは敵対する国にいた巫女《みこ》を示すマークなのである。  宗教色の濃い古代国家では、それぞれの国ごとにシャーマンの役割をもつ女がいた。国と国が戦争になれば、まず彼女たちがそれぞれ相手の国に呪いをかけた。兵士を動員して実際に武力を行使する前に、まず目に見えない霊力で、敵から発せられる呪いを解かなければならなかったのだ。  ベッドに寝ている人間は、今まさに敵の巫女から呪いをかけられているところである。その呪いによって、彼の頭の中には架空の映像が展開される。それがほかでもなく「夢」である。つまり「夢」とは他から仕掛けられた悪夢であって、現在の我々が考えるような明るく楽しいイメージをもつものではなかった。  昨今の日本では、特に経済や金融方面などで破綻やリストラが続き、ある意味では悪夢の連続であった。そろそろこのあたりで、「夢」という字が明るい意味をもってほしいものだと切実に思う日々である。 [#改ページ] 97 [#特大見出し] 陽《よう》 [#地付き]陽|極《きわ》まりて   「士」の章で「士」という字をネタにして述べたように、日本では一月一日をはじめとして、三月三日・五月五日・七月七日というように、奇数月で月と日の数が「ゾロ目」になる日には、なにかの行事か節句かがある。これはもちろん中国から渡来した習慣であって、日本ではあまりなじみがないが、九月九日ももちろんちゃんと節句となっている。  この日を「重陽《ちようよう》の節句」という。九月九日はもともと何人かで小高い丘などに登り、菊の花びらを浮かべた酒を飲みながら、しばらく会っていない友人を偲ぶ、「登高《とうこう》」というレクリエーションがおこなわれる日だった。日本にもはるか昔にはこの習慣があったのだが、しかし最近では行事どころか、「重陽」ということばそのものすら、しだいに忘れられようとしている。  ところで九月九日を「重陽」と呼ぶのは、中国の伝統的な占いである易で、「陽」を象徴する数字である九がふたつ「重」なる日だからである。  さまざまな事柄を五十本の筮竹《ぜいちく》を使って占う方法を記した儒学の経典『周易《しゆうえき》』によれば、人間をとりまく事物は、すべて「陽」と「陰」の組み合わせで解釈できるとされる。そして易ではこの「陽」を九で象徴することから、「重陽」という言い方ができた。ちなみに「陰」を象徴する数は六であるが、だからといって六月六日を「重陰」というわけではない。「重陽」があって、「重陰」がないのはなぜか、その理由は私にはわからない。  ともあれ、たとえば天と地、日と月、山と海、明と暗、剛と柔というように、同じカテゴリーの中で対立しあうもののうち、強くて活気のある方が陽、弱い方が陰になる。日と月ではもちろん日が「陽」、月が「陰」になる。それで「太陽」という言い方ができた。また月の運行を基準とした暦を「太陰暦」と呼ぶのも、月が「陰」であるからにほかならない。 ◎なぜ「洛陽《らくよう》」か[#「◎なぜ「洛陽《らくよう》」か」はゴシック体]  これは地名の付け方にも関係があって、日がよく当たるところを「陽」、それほどよく当たらないところを「陰」とする。山の南側は太陽がよく当たるから「山陽」であり、それに対して山の北側は「山陰」になる。それが日本に入ってきたのが、中国地方の山陽・山陰である。しかし川ではそれが逆になり、北側の方がよく日が当たる。それで洛水という川の北側にある町を、「洛陽」と呼ぶのである。 「陽」の字がつくものには、総じて力強いエネルギーがあふれる感じがある。だから上海《シヤンハイ》のあるレストランで、メニューに「陽春麺」とあるのを見た時、てっきり具がいっぱい入った「五目ソバ」だと思って注文した。しかしそれはなんと、ネギしか入っていない「かけソバ」であった。命名の由来を尋ねると、哲学者を思わせる風貌をした店主がぼそっと、「陽極まりて陰生ず」と答えた。中国にはソバにも陰陽の哲学があるらしい。 [#改ページ] 98 [#特大見出し] 夜《よる》 [#地付き]亡国《ぼうこく》の夜   伝説によれば、殷《いん》という王朝の最後の王となった紂王《ちゆうおう》は、古代ローマ帝国に君臨したネロと並び称される暴君であったという。紂はかずかずの悪行をおこなったとされるが、そのうちのひとつに、よく知られている「酒池肉林《しゆちにくりん》」がある。  今の日本語で使う「酒池肉林」という語には、なにか中年のおっさんがピンクサロンでにやけきっているような、非常にみだらなイメージがある。これは「肉」という字を女性の肉体と考えた結果の解釈なのだが、ただこの語の出典である紂の故事では、「肉」は食べる肉のことになっている。  紂王はある時、宮廷の庭にある池に酒をなみなみと充たし、また木の枝に乾し肉をたくさん吊るして、裸になった男女が、その中で夜遅くまで明かりをともして盛大な宴会を開いた。それが「酒池肉林」である。  たしかにここには裸の男女が登場はするのだが、「肉」がもともと乾し肉を意味していたことは自明である。  こうして人民の苦労を忘れた王のために、殷はついに亡国の憂き目にあったが、ところでこの「酒池肉林」の話では、莫大な浪費もさることながら、夜遅くまで宴会を開きつづけた点も、王の罪悪のひとつに数えられている。電気などによる照明が普及するまで、夜に煌々《こうこう》と明かりを灯《とも》すのは非常に贅沢なことだった。ましてや紂は広大な庭園で夜遅くまで宴をはったのである。照明にはおそらくたいまつを利用したのだろうが、それに要した費用もまたかなりのものであったにちがいない。 ◎進歩なのか、堕落なのか[#「◎進歩なのか、堕落なのか」はゴシック体]  太古以来ごく近年に至るまで、人間は日没とともにその日の活動を休止し、翌朝までじっくりと休息をとってきた。だから「夜」という漢字は、≪人≫と≪月≫とからできている。 [#挿絵(img¥98.jpg、横120×縦200、上寄せ)]  人間が空に浮かぶ月を眺めながら、横になって休息する時間が「夜」なのである。そんな時間に酒を飲み、肉を食らうのは、自然の摂理に背いた、とんでもない行為だった。紂が暴君とされる理由のひとつはここにある。  しかし燃料事情の改善と照明器具の開発・進歩によって、人は夜間にもさまざまな活動をおこなえるようになった。これが人間にとって進歩なのか、あるいは堕落なのかはなかなか難しい問題である。この次に眠れない夜があったら、暗闇の中で一度じっくり考えてみたいものだ。ただし隣に美しい異性がいれば、そんなことを考えている余裕などもちろんないだろうが。 [#改ページ] 99 [#特大見出し] 老《ろう》 [#地付き]老春の酒  「敬老の日」が祝日とされ、学校や会社が休みになったのは昭和四十一年(一九六六)のことだが、もともとこの日に敬老のための種々の行事をおこなうこと自体は、昭和二十六年にはじまったらしい。だからこの祝日はすでに五十年近い歴史をもつことになるのだが、ただ敬老の日がなぜ九月十五日に設定されたのか、その理由がどうもよくわからない。単に時候のいい季節、というだけのことなのだろうか。  ともかく毎年この日にはお年寄りの健康を祝い、長寿を祈るという名目で、全国各地でさまざまなイベントが開催される。だが数年前に古稀《こき》を迎えたわが知人は、一年に一日だけの、とってつけたような「敬老」も変な話だし、主催者の自己満足ぶりが露骨に感じられるような催し物に招かれるのは疲れるだけだから、せめて「敬老の日」くらいはゆっくり静かに休ませてほしいものだ、と皮肉なことをいう。  高齢社会を迎え、心身ともに元気な老人がますます増えている。それはまことに結構なことである。長寿の人が増えたことを皮肉るつもりは毛頭ないのだが、しかしいつまでも第一線に老人が居座っていれば、続く壮年や青年世代の人間の出番がなくなることも事実である。古くから蒸し返されたテーマだが、指導者はしかるべき時期に交代していかねばならない。それに失敗すると、「老害」などと揶揄《やゆ》される事件が起こる。高齢社会とは、長生きできる時間はふんだんにあるが、これといってするべきことがないという、働きバチ的に生きてきた人間にはまことにつらい時間の到来なのである。 ◎老人の風格とは[#「◎老人の風格とは」はゴシック体] 「老」という漢字は、長い頭髪の人が杖《つえ》をついている形をかたどっている。長生きした証拠を示すかのように髪を長く伸ばした長老が、手に杖をもって立つさまは、ある集団での顧問としての堂々とした風格を感じさせる。すべからく老人とはこのように、顧問または後見人としての立場に甘んじるべきであると、私などは思う。  唐《とう》代の中国には「老春」という名の酒があった。ある酒造りの名人が死んだことを聞いた酒仙|李白《りはく》が、名人を悼《いた》んで作った詩の一節に、「あのじいさんも今ごろは、きっとあの世で『老春』を醸《かも》していることだろう」とある。 「老春」とはなんともいい響きをもつネーミングではないか。数人の友とともに、過ぎさった時間をなつかしく振り返りつつ、よもやま話とともに酌《く》みかわす酒には、このような名前がふさわしい。  どこかのメーカーが、この名前でうまい酒を造って発売しないものか。これを「敬老の日」の催し物で配るお土産とすれば、きっと喜ばれるにちがいない。私も老人になったあかつきに、こんな引き出物が出るイベントがあれば、なにをさておいても駆けつける。そして「敬老の日」が春にあったら、銘酒「老春」はもっと似合うことだろう。 [#改ページ] 100 [#特大見出し] 労《ろう》 [#地付き]労は社会の美徳   昔はどこの小学校にも、背中に薪《たきぎ》をうずたかく積みあげ、少しうつむいて歩きながら、一心不乱に本を読んでいる少年の銅像があった。私たちが子供のころには「ながら族」の元祖と皮肉られることもあったこの少年の名は二宮《にのみや》金次郎、後に農学者として活躍する二宮|尊徳《そんとく》(一七八七〜一八五六)である。  両親を早く亡くした金次郎は、やがて親類に引き取られたものの、そこでは下男同様のひどい扱いをうけた。それでもしかし金次郎は不幸な境遇にめげず、厳しい労働の合間に寸暇《すんか》を惜しんで勉強した。例の銅像はその時の姿であるという。こうして勉強した甲斐があって、彼はやがて立派な学者となり、荒廃地を復旧したりしながら農業の発展に尽力《じんりよく》したという。  子供のころ自宅にあった尊徳の伝記を読んで、この人はなんと偉い人なのだろうと、素直に胸をうたれたものだ。子供心にうけた素朴な感動を、私は今も忘れていない。  二宮尊徳の話の中心には、勤労精神と向学心という二つの美徳がある。この美徳は、今の日本でも決して輝きを失っていないはずだ。しかし今の小学校では二宮尊徳の銅像をほとんど見かけない。あの人はいったいどこへ行ってしまったのだろうか、まったく寂しい限りである。 ◎尊い勤労[#「◎尊い勤労」はゴシック体]  生活にゆとりを、という主張が浸透したからなのだろうか、最近の日本社会には、歯を食いしばって頑張る姿を「カッコ悪い」ととらえる風潮がある。  しかし全国民が汗をかかずに、スマートにカッコよく、言い換えれば楽ばかりしながら生きている国があるとすれば、その国はまもなく滅亡するだろう。豊かな繁栄をかちとるためにもっとも必要なのは、いうまでもなく勤労である。 「労」(本来の字形は「勞」)は、≪力≫と≪冖≫(家の屋根)と二つの≪火≫からできており、一説によれば、激しい火が屋根を燃やす時に人が出す、いわゆる「火事場の馬鹿力」の意味から、「大きな力を出して働く」ことをいう文字となったという。 「労」という字の本来の意味が緊急時における働きであったとしても、豊かな国と社会を作り上げる基本は、やはり日常的なたゆまぬ勤労である。真摯《しんし》な努力と額《ひたい》に汗する労働を馬鹿にする軽薄な風潮は、今すぐにでも断ち切るべきである。  子供が学校の図書館から借りてきた『二宮尊徳伝』を、又借りして読みながら、そんなことを考えた。 著者 阿辻哲次(あつじ・てつじ)[#「著者 阿辻哲次(あつじ・てつじ)」はゴシック体] 一九五一年、大阪生まれ。 京都大学文学部中国語中国文学科卒業。 同大学大学院博士課程修了。専門は中国語学、特に漢字を中心とする文化史を研究。 現在、京都大学総合人間学部教授。 著書に、『図説漢字の歴史』(大修館書店)、『漢字のベクトル』(筑摩書房)、『漢字の字源』(小社)など多数がある。     * 本書は、「講談社ことばの新書」として二〇〇〇年三月に刊行されました。